鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―437―た。しかし、曾祖母に関しては曖昧な証言が集められ、翌年には参事会員となった。その後、コンベルソ宥和策を講じたオリバーレス伯公爵の庇護を得て宮廷入り、1622年初めには王室礼拝堂付き司祭の職を得て、同年4月、宮廷でベラスケスを出迎えた。フォンセカとともに宮廷でベラスケスを歓迎したルイス、メルコールのアルカサル兄弟も(注16)、一族間で結婚を繰り返す明らかなコンベルソの家系の出であった(注17)。アルカサル一家はパチェーコと結びつきが深く、パチェーコは『著名貴紳肖像名鑑』で、兄弟の叔父でイエズス会士の神学者ルイス・デル・アルカサル〔図2〕ほか、一家の3人を取り上げている(注18)。その記述でコンベルソであることを示す姓を意図的に削除していることから、パチェーコは一家の出自を熟知していたと考えられる(注19)。また、一家はその出自ゆえ、血の純潔規約への反意を唱えていたことが知られ、アグスティン・サルシオの著者名をもつ『血の純潔規約に関する議論』は、ルイス・デル・アルカサルの著作ではないかと目されている(注20)。作者は中立の立場を装いながらも純潔規約を酷評し、純粋なカトリック教徒であることを自慢する低階層の労働者がコンベルソの血の多く混じり込む高位の貴族階級を軽蔑するという当時の社会情況を批判した(注21)。さらに、パチェーコのアカデミアの常連で、ルイス・デル・アルカサルの著作に挿絵を描いた詩人で画家のフアン・デ・ハウレギはアルカサル家の親族であり、その祖父はコンベルソとして批判されたサル家の一員であった。そのため彼もまたカラトラバ騎士団に入会するまでに、長い苦難の道を歩まねばならなかった。1624年にオリバーレスに礼賛詩を贈り、その2年後に宮廷入りを果たした(注22)。以上のとおり、セビーリャでパチェーコのアカデミアに出入りした後、オリバーレスの庇護を得て宮廷入りした貴族の多くはコンベルソの家系の出であった。彼らはその出自ゆえの苦難を経験し、血の純潔規約に否定的な立場をとる人物たちであった。ベラスケスはこれらの貴族を頼り、1622年4月に初めて宮廷を訪れるのである。ベラスケスの1度目の宮廷来訪についてパチェーコは、エル・エスコリアル宮殿の見学が主目的だったと語っている(注23)。しかしこうした純粋に芸術的な目的とは別に、ベラスケスには国王の肖像を描くという重要な目標があった。結局1度目の来訪ではこの目標は叶えられなかったが、ベラスケスはこのとき既にはっきりと宮廷入りを意識していたと考えるべきだろう。最近発表された新資料によれば、ベラスケスは1621年6月には弟子を友人の親方画家に預け、宮廷入りに向けての準備を始めていたと推定される(注24)。《セビーリャの水売り》はまさにこの頃描かれた(注25)。

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