―438―〔図4〕に見られるとおり、当時の水売りはロバの背、或いは手押し車に水甕を載せ、泉から汲み上げた水を家庭に売り回っていた(注29)。しかしベラスケスの作品ではロバや手押し車は見当たらず、水甕のみが前景の最も目立つ場所に置かれている。まベラスケスは宮廷入りの野望とともに、既に宮廷入りしていたセビーリャの貴族がその後ろ盾となることを期待して、同作品を描いたと考えられるのである。2《セビーリャの水売り》:一般的イメージとの相異《セビーリャの水売り》〔図1〕は、ベラスケスのボデゴンの中でも特に画家の円熟した技量を示す、完成度の高い作品である(注26)。日焼けした顔の老いた水売りは袖が破れた茶色のスモックをまとい、水がたっぷりと入った透明なグラスを厳粛な面持ちで少年に手渡している。少年は右手でグラスの足の部分を大切そうに支えている。2人の背後ではもう1人の男が水を飲んでいる。木のテーブルには白釉のかかった水差しと、その口に載せられた小さな白い水入れがある。水売りの前に配された水甕の表面には水の滴が流れ落ちている。作品はベラスケスが1627年にフォンセカの絵画コレクションの査定を行った際、画家本人によって「水売りの絵」と記録された(注27)。しかし先行研究も指摘するように、描かれた水売りは当時の一般的なイメージとは大きくかけ離れている(注28)。セビーリャのベラスケスの自宅付近の散歩道アラメダ・デ・エルクレスを描いた絵たここでは、《水売りの少年》〔図5〕に見られるような金銭のやり取りもない。さらに図4では、水甕が割れ両手を挙げて怒る水売りが表されているが、このように粗野で騒々しいというのは、当時の水売りのごく一般的なイメージであった(注30)。嘘つき、悪漢も水売りの定着したイメージで、ピカレスク小説の『エステバニーリョ・ゴンサーレスの生涯』には、きれいで健康に良いと評判のアラメダ・デ・エルクレスの水だと偽り、別の泉から汲んだ水を売り歩く水売りが登場する(注31)。一方、ベラスケスが描いた水売りはこうしたイメージとは正反対の、儀礼的とも言える厳格な雰囲気を漂わせている。完全な側面観で描かれた水売りがグラスを手渡す仕草はしばしば、聖体の秘蹟を授けているようだと評されてきた(注32)。聖なる水を授けるかのような貧しい水売りと、それを恭しく受け取る少年、彼らの前で堂々たる存在感を放つ水甕と2つ重ねられた白い水差しは、当時のセビーリャで日常的に繰り返されていた水売りの行為とは一線を画する特別な雰囲気を作品に与えている。それは透明な輝きを放つグラスによっても強調されている。グラスの中の黒い球状の物体〔図6〕は風味付けの為の無花果だとも考えられるが(注33)、このような装
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