―439―飾付きのヴェネツィア風グラスが当時のスペインに出回っていたことが指摘されている(注34)。筆者はそれが同時代のセビーリャ絵画に描かれた例として、ペドロ・デ・カンプロビンのボデゴンを指摘したい〔図7、8〕。珍しい装飾付きのグラスは、観者の注意を特に惹き付けるモチーフとなっている。ベラスケスの作品では、貧しい風貌の水売りとの対照により、繊細なグラスとそこに満たされた水の透明な輝きはさらに強調されていると言えよう。つまりここでは水は、当時のセビーリャで日常的に売買されていた水とは別の、何らかの特別な意味を付与されていると考えざるを得ないのである。3 水、水甕の象徴的意味先行研究ではメナが本作品の水売りを、質素な生活を推奨した古代哲学者ディオゲネスに重ね合わせ、これをフォンセカの古代趣味に結び付けた(注35)。またペレス・ロサーノはフォンセカの高度な文学的教養に着目し、作品にはその姓に関する言葉遊びが込められていると考えた(注36)。しかし、これらの解釈はいずれも、同作品が画家本人によって宮廷に持参された意味を十分に説明していない(注37)。そこで筆者は、作品の中で水あるいは水甕に明らかに特別な存在感が付与されている事実に立ち戻り、その意味を、これらのモチーフに伝統的に与えられてきた象徴的意味との関連から読み解いてみたい。周知のとおり水はキリスト教文化の中で複数の象徴的意味を有するが、筆者がここで注目したいのは、純潔あるいは清めと結び付けられてきた水である。最後の晩餐の前にイエスが弟子の足を洗うという挿話(ヨハネ13:1−20)は、この清めの儀式の象徴である(注38)。絵画ではこれは単独で表されることもあれば、最後の晩餐の物語の一部として、その図像に描き込まれることもあった。17世紀前半のセビーリャで多くの画家が利用したコルネリス・コルトの版画〔図9〕は、その一例である(注39)。洗足の場面は、晩餐のテーブルの奥の階段を上がった所に表されている。しかし行為そのものが直接的に表現されるばかりでなく、洗足の儀式はひとつのモチーフによって、すなわち水甕によって、象徴的に表わされることがあった。最後の晩餐の図像でテーブルの前に水甕が描かれる場合、これは晩餐前の洗足を暗示する(注40)。ルイス・トリスタンの作例をはじめ、スペインでは多くの作品で晩餐のテーブルの前に水甕が描かれた。パチェーコにより静物描写の技量を称賛された画家(注41)アロンソ・バスケスの《最後の晩餐》〔図10、11〕は、コルトの版画〔図9〕を着想源にしているが、洗足の場面が画面左奥へと退けられる代わりに、前景中央の目
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