鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
459/589

東大寺の成立過程に関する研究―449―――大養徳国金光明寺の所在地を中心に――研 究 者:早稲田大学大学院 文学研究科 博士課程  児 島 大 輔1.問題の所在奈良・東大寺はわが国最大の仏教寺院であり、奈良時代(8世紀)に国力を尽くして造営された古代史上の一大モニュメントである。東大寺に関してはこれまでも多方面から膨大な研究史が積み重ねられてきているが、東大寺の成立過程はいまだに明らかにされているとはいいがたい。美術史的観点からすれば、東大寺の前身寺院との深い関係が想定される法華堂諸像をはじめとする天平期の現存作例は、制作年代を確定できていないことがその最大の要因である。加えて、従来は『東大寺要録』をなかば無批判に偏重してきたことも議論を混迷させている要素のひとつである。『東大寺要録』は東大寺史に欠かせない文献史料ではあるが、時代の下った12世紀初頭に寺勢の衰えを嘆じて東大寺僧が撰述した書物であり、いささかバランスを欠いた史料であることを念頭におかなければならないのである。以上のような問題意識を持ちながら、東大寺の成立過程を解明しようとするとき、おのずと8世紀の一次史料である「正倉院文書」の重要性が浮かび上がってくる。本研究では「正倉院文書」および「正倉院宝物」を中心にして東大寺の成立過程、なかでもその前身寺院と目される大養徳国金光明寺の所在地について考察してみたい。2.東大寺の成立過程に関する研究史これまでの膨大な研究史が明らかにしてきた「正倉院文書」における写経所の名称によるかぎり、東大寺は東院→福寿寺→金光明寺→東大寺と段階的に成立したことが理解される(注1)。つまり、東大寺はその威容を忽然と現在地にあらわしたのではなく、前身寺院施設を包摂しながら発展的に成立したととらえるのが自然な解釈であろう。「正倉院文書」によれば天平19年にはじめて「東大寺」の名称が見られる(注2)。天平17年(745)の平城還都後に盧舎那大仏造立の地として平城京東山すなわち東大寺の現在地が選定され、大仏鋳造が開始された最初期から「東大寺」なる名称が使われたとみてよいだろう。では、東大寺を名乗る直前の前身寺院、つまり大養徳国金光明寺とはいかなる寺院施設であったのだろうか(注3)。この金光明寺についてはその中心、すなわち金堂をどこと見るかが、古くより多く

元のページ  ../index.html#459

このブックを見る