鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―450―の研究者によって論じられてきた(注4)。この研究史のなかで、天平期の重要作例を多く残し、『東大寺要録』の記述によれば金鍾寺と深くかかわると考えられる法華堂(三月堂)が、金光明寺の中心とみなされてきたのは当然の結果であったといえよう。これに対して福山敏男氏は国分寺(金光明寺)の本尊は釈迦像であるべきで、不空羂索像が本尊の法華堂が金鍾寺(=金光明寺)の金堂ではありえないと論じ、ついで堀池春峰氏は金光明寺金堂としてかつて法華堂の東南に西面して建っていた千手堂を想定した(注5)。近年では吉川真司氏が、法華堂は金鍾寺(=金光明寺)金堂ではないとする福山説を「通説化している」とした上で、堀池説の千手堂が西面する点に難色を示し、新たに知られた丸山西遺跡が金光明寺金堂跡地であるとした(注6)。また、上原真人氏は出土瓦の分析をふまえた上で、広い前庭をもち南面する法華堂こそ金光明寺金堂としてふさわしいと断じ(注7)、松浦正昭氏は東大寺西大門勅額を荘厳する八天像に注目し、これらが『金光明最勝王経』によることから、同経に基づいて造営された金光明寺本尊もこれら八天像であり、法華堂に現存する乾漆八天像こそ金光明寺本尊にふさわしく、したがって法華堂を大養徳国金光明寺金堂と推定した(注8)。さらに、高橋照彦氏は、東大寺上院地区が興福寺式伽藍配置を下敷きとした可能性を指摘し、同地区を金光明寺の前身寺院である福寿寺と推定、丸山地区を金鍾山房にあてた。さらに両者が統合されて金鍾寺となり金光明寺に指定されたと解釈、金光明寺の中心は上院地区で、法華堂がその中金堂、千手堂が東金堂に相当し、不空羂索像は当初上院地区における西金堂相当の堂宇に安置される予定であったと論じている(注9)。以上のように、近年だけでも重厚な論考が相次いで発表されており、その消化は容易ではないが、以下で松浦氏も取り上げた西大門勅額に注目し、自説を述べてみたい。3.東大寺西大門勅額と大養徳国金光明寺「金光明四天王護国之寺」の勅額〔図1〕が掲げられていた東大寺西大門は平城京二条大路に開かれた門であるがゆえに、東大寺のいわば正門として機能していたとされる(注10)。額面の寺号は金光明寺の正式名称であり、平城京二条大路は朱雀門前を通り、朱雀大路と並ぶ最も大きな通りであることからも首肯される見解ではある。しかし、この勅額が表象する歴史的意義はそれだけにとどまらないと考える。すなわち東大寺西大門は大養徳国金光明寺の正門の機能をそのまま受け継いでいた

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