鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―451―と考えられないだろうか。正倉院宝物「東大寺山堺四至図」〔図2〕によれば、西大門の脇に「東大寺」と墨書され〔図3〕、やはり西大門が東大寺の正門として機能していたことがうかがえるのだが、これは東大寺が平城京東山に位置するという地勢的な理由よりも、西大門が大養徳国金光明寺の正門の機能を受け継いだ歴史的な理由によると考えたいのである。このような観点から「東大寺山堺四至図」を見直すと、西大門をくぐり直進した先に千手堂が西面して建つことに気づかされる〔図4〕。つまり、この千手堂こそ大養徳国金光明寺の中心、すなわち金堂としての機能を有していたのではなかろうか。千手堂については別に論じたように、天平12年(740)に藤原広嗣の乱を調伏する目的で、『千手千眼経』所説に則って造立された7尺の観音像を安置するための堂として玄|が中心となり創建されたものと考えている(注11)。玄|の発願によって書写された『千手千眼経』〔図5〕の存在がこれを裏付けるものと考えるのだが、興味深いことに、この玄|の願文の一節、「聖法之盛、与天地而永流、擁護之恩、被幽明而恒満」は天平13年(741)のいわゆる「国分寺建立の詔」の一節と、まったく同一の文言なのである。このことは両者が同一人物つまりは玄|によって作文されたというような表層的なことだけでなく、千手堂の造営が国分寺建立の詔の精神を受け継いだものであることを物語っているのではないだろうか。さらに、この玄|願経の書写は福寿寺写経所で行われていたことからも、千手堂は福寿寺の一角を占めていたと推定され、千手堂は福寿寺を経て大養徳国金光明寺の中心施設へと発展したと考えられるのである〔図6〕。しかしながら、前節の研究史で見たとおり千手堂は西面する立地条件から金光明寺の中心としては不適格と論じられてきた。この点について、以下次節で検討してみたい。4.諸国国分寺の造営金光明寺すなわち諸国の国分寺は天平13年(741)のいわゆる「国分寺建立の詔」を直接の契機として諸国に造営された僧寺であることは言うまでもない。しかしながらその造営は遅々として進まなかったようで、『続日本紀』(以下『続紀』と略称)によれば諸国に金光明寺造営の進捗を促す詔がたびたび出されており、決して芳しいものではなかった国分寺の造営状況を憂慮する奈良朝政府の姿を目の当たりにすることができる〔年表1〕。紙幅に限りがあるため、ここで『続紀』の記事を逐一挙げることは慎むが、〔年表

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