―452―1〕にしたがってその概要を述べるならば、①まず天平19年(747)には諸国国司らが怠慢なために金光明寺造営が着工されていないことを叱咤し、新たに3年の年限を設けて造営の進捗を促す詔を発している(注12)。②この詔から6年後、天平勝宝8歳(756)には使を七道諸国に発遣して国分寺の丈六仏の造営状況を査察させ(注13)、③その7日後には査察結果を受け、明くる年の聖武太上天皇の忌日に間に合わせるべく造るよう詔を発している(注14)。つまり、この段階ではいまだに国分寺本尊たる丈六仏は造像されていなかったのであろう。④さらに天平宝字3年(759)、「国分二寺の図」なるものを天下諸国に頒布する(注15)。この「図」は堂塔の指図あるいは伽藍配置を指示した現在言うところの設計図のようなものであったろう。つまり、ここに至るまで諸国においては設計図さえも描けていなかったのが実情なのである。ただ、遅ればせながらこの「図」の頒布は効果的だったようで、『続紀』による限りこれ以降は国分寺造営の督促を行っておらず、また神護景雲元年(767)には国分金光明寺において正月に吉祥天悔過を行うよう諸国に勅を下していること(注16、⑤)から、このころまでには国分寺は各地においてその威容を整えていたとみるべきであろう。そして、これら一連の国分寺造営督促は東大寺の造営と密接に関わっていると考えられるのである。天平15年(743)の「大仏造立の詔」に端を発するこの未曾有の大事業は、紫香楽甲可寺において一旦は仏身の体骨柱を立てるまでに至ったものの、あえなく挫折し、とうとう紫香楽宮を放棄して天平17年(745)の平城還都と軌を同じくして現在地において大仏の造立を再開したのであった。頓挫した甲可寺での場合と異なり平城での造立は着実に進んだようで、ついに天平19年(747)に至り、盧舎那大仏の鋳造作業に入ることができたのである。『東大寺要録』所引「大仏殿碑文」によると9月29日から鋳造が開始されたらしく、その一月あまりたった11月7日、さきに見た国分寺の造営を促す最初の詔を諸国に発している。おそらくこの段階で盧舎那大仏造立の目処が立っていたのであろう。8箇度にわたったという鋳造作業の第1段階が終了し、以降3年かかる大仏造立が順調にすべり出した頃であったと思われる。逆に言えば、これ以前は盧舎那大仏の造立もままならない状態であり、中央政府としても諸国に国分寺造営を督促することがはばかられたのではなかったか。つまり、盧舎那大仏の鋳造開始が国分寺造営を促す最初の詔の端緒となったと解したい。次に国分寺造営を促す詔は天平勝宝8歳(756)に発せられるが、これは詔文中に明らかなように、聖武太上天皇の崩御をうけてその一周忌に間に合わせるよう命じたものである。この段階では大仏の鋳造が成り、すでに開眼会を終え、東大寺の伽藍も
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