―453―整ってきた頃であったと想像される。天平勝宝8歳の紀年銘をもつ正倉院宝物「東大寺山堺四至図」〔図2〕が東大寺の主要伽藍を立面図で描くか、あるいはその占地を明示していることがこれを裏付けている。こうした状況の中で天平宝字3年(759)、「国分二寺の図」は諸国へ頒布されたのである。発掘結果からすると諸国の国分寺は、東大寺式の伽藍配置を簡略化したいわば「国分寺式」とでも称すべきものであることが明らかとなっている。これらは全国的にまったく同一の規格になるものではないにせよ、南面する金堂を中心に一塔・僧房を備えるというある程度の統一感を見て取るべきで、ここに「国分二寺の図」の効力を認めるのである。さらに、この伽藍配置が東大寺伽藍を基本としていることはきわめて示唆的である。すなわち、造営督促の詔が発せられたタイミングとも合わせ考えれば、この頒布された「図」は当然東大寺伽藍を念頭に置いたものであったに違いなく、それゆえに諸国の国分寺は亜東大寺式ともとれるいわゆる国分寺式の伽藍配置をもつのである。つまり、この国分寺式伽藍配置は東大寺成立後のこととしてとらえなければならないのである。とすれば、この考察の結果は、次のようにも言えるのではなかろうか。国分寺造営を促す一連の詔が発せられる以前に造営されていた国分寺、あるいは既存の寺院が国分寺に指定されていた場合には、当然この頒布された「図」にとらわれることなく造営されていたはずで、そうであれば現在我々が描くところの国分寺のイメージ、すなわち南面して建つ金堂には本尊として丈六仏が安置され、その前庭は広く、塔・僧房を備えるという規格とは異なっていた可能性が高いのではなかろうか。「正倉院文書」によれば「福寿寺写一切経所」が「金光明寺写一切経所」と改称するのが天平14年のことである(注17)。つまり、本稿で問題とする大養徳国金光明寺は、「国分二寺の図」はおろか造営を督促する最初の詔が発せられるより以前に既存の寺院、すなわち福寿寺が金光明寺として指定されたものなのである。したがって、大養徳国金光明寺は前述したような「国分二寺の図」によったと考えられる一般的な国分寺イメージの範疇でとらえるのはきわめて危険であり、前項で示した通り千手堂が大養徳国金光明寺の金堂であった可能性は十分にあると言えるだろう。5.むすびにかえて以上、東大寺の成立過程について、その前身寺院である大養徳国金光明寺の中心施設がどこであったかに主眼を置いて議論を進めてきた。その結果、「正倉院文書」にあらわれた東大寺の成立過程と、東大寺西大門勅額を手がかりとして千手堂が大養徳
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