鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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注福山敏男「奈良朝に於ける写経所に関する研究」(『史学雑誌』43−12、1932年)、栄原永遠男「初期写経所に関する二三の問題」(『日本政治社会史研究』上、1984年)、渡辺晃宏「金光明寺写経所の研究」(『史学雑誌』96−8、1987年)、山下有美「正倉院文書を伝えた写経機構(上)」(『正倉院文書研究』2、1994年)。 『大日本古文書』9巻393頁。■大和国は天平9年(737)12月に「大倭国」から「大養徳国」へと改称し、天平19年(747)3月に一旦「大倭国」へと戻した後、天平宝字2年(758)2月に「大和国」と改称する。したがって、本論でも当時の呼称にならうこととする。■これらの研究史をまとめたものに高橋宗一「不空羂索像と東大寺法華堂の創立」(『寧楽美術の争点』1984年)、片岡直樹「法華堂と不空羂索観音像の成立」(『東大寺―美術史研究のあゆみ―』2003年)がある。■福山敏男「東大寺法華堂に関する問題」(『東洋美術』23、1936年)、堀池春峰「金鐘寺私考」■吉川真司「東大寺の古層―東大寺丸山西遺跡考―」(『南都仏教』78、2000年)■上原真人「東大寺法華堂の創建―大養徳国金光明寺説の再評価―」(『考古学の学際的研究』■松浦正昭「法華堂天平美術新論」(『南都仏教』82、2002年)高橋照彦「東大寺前身寺院に関する試論」(『鹿園雑集』5、2003年)岸俊男「「東大寺山堺四至図」から考える」(『日本歴史』393、1981年)拙稿「東大寺千手堂銀造盧舎那仏像と良弁による上院地区の再編」(『美術史研究』42、2004『続紀』巻17、天平19年11月7日条参照。『続紀』巻19、天平勝宝8歳6月3日条参照。『続紀』巻19、天平勝宝8歳6月10日条参照。『続紀』巻22、天平宝字3年11月9日条参照。『続紀』巻28、神護景雲元年正月8日条参照。前掲(注1)福山論文。―454―国金光明寺の中心であった可能性を指摘した。従来、金光明寺の金堂は南面堂であることが前提とされてきたが、いわゆる国分寺式の伽藍配置は天平宝字3年に諸国に配られた「国分二寺の図」に描かれたグランドデザインである可能性が高く、当時は千手堂が金光明寺の金堂たりうる余地が十分にあったことを論じ得た。東大寺の成立過程に関してはまだまだ未解明の問題が多く残されている。本稿で論じ得たのはそのうちのわずかな一部ではあるが、これまでの固定概念から解放されたことを喜びとしたい。残された諸問題は今後の課題とし、本研究を足がかりに果敢に挑んでいくこととする。(『南都仏教』2、1955年)年)2001年)

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