鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―459―「応徳涅槃図」が完成する6年前の1080年、白河天皇は園城寺北院に妙見菩薩を祭る寺院を建立させた。天皇が尊星王を称える秘法の最初の熱心な推進者となったのは、まさにこの天台宗の拠点においてであった。妙見菩薩への信仰が強まった歴史的、宗教的背景の中で、平安時代にはまた、北斗七星信仰の為の別尊曼荼羅も現れる(注4)。「応徳涅槃図」の制作中、天台宗の寺院における儀式で円曼荼羅が広まる一方、寛助法師が上皇に紹介した方曼荼羅が真言宗の中に現れる〔図7〕〔図10〕。鎌倉時代初期の『白宝口抄』等に、白河上皇のために寛助法師が構想した方曼荼羅の最初の図像や、それが東寺内部に奉納された儀式について述ベられている(注5)。さらに上皇自身も天仁2年(1109)に北斗七星堂を建立しており、その内部には56体の仏像がある立体の北斗七星曼荼羅が奉納されている(注6)。平安時代末期から鎌倉時代にかけ、北斗七星にまつわる儀礼が発展した多くの寺院の中で、仁和寺もまた中心的な位置を占める。方曼荼羅を最初に導入した寛空、そして寛助もこの有力な寺僧院の出身であり、性信が1018年に出家したのもこの寺の北院であった(注7)。性信はこうして仁和寺で星曼荼羅を創始した広沢流の偉大な僧たちと同じ系譜の中に位置することになる。寛助は、1080年にこの寺で性信から灌頂を受けている。北斗法に関しての性信自らの関与を裏付ける資料は見当たらないが、仁和寺におけるこの人物の地位、後継者の寛助との直接的な関係から、彼自身もまたそこで手ほどきを受けたと考えられる。また、寛助と同様に性信も、平安時代の仁和寺において北斗七星信仰と平行して行われた孔雀命法の、最も偉大な阿闍梨であった。2.「応徳涅槃図」の菩薩と北斗七星陰陽道や密教、神道の影響が広まる平安時代において、妙見菩薩への信仰、もっと広く言えば北極星に対する関心が急速に広まった。その発展を示す図像として、曼荼羅の中に北斗七星、あるいは妙見菩薩と結びつきのある鹿や、豊穣の使者「竜」が好んで描かれたが〔図9〕、奈良時代の正倉院宝物の中に、七つの星に亀を組み合わせた箱が存在することも事実である〔図8〕(注8)。また、仁和寺に伝わる『別尊雑記』の妙見菩薩は亀の背に立っている〔図13〕。本論のテーマとなる二重のイメージに照らし合わせて見ると、一般的な星曼荼羅に表わされているように、「応徳涅槃図」の中にも如来の横に七つの星を表わす7人の菩薩の存在を想定できる〔図11〕〔図12〕。あるいは『五行大義』にも描かれている通

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