鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―37―ている。ここでは、愛玩犬・縄暖簾・遊女という三者が一図に組み合わせられることによって、この連想が容易に行えていることに注意したい。一方、この場合の「垣間見える遊女」という言説の暗示的意味は、「無防備な深窓の美女、見られる美女」というものである。深窓の、というのは適切でないようだが、高位の遊女はよほどの財力や時間等がなければなかなか顔が拝めないはずの憧れの存在であり、それがあるいは愛犬を追ってか表通りに姿を見せた瞬間が表されたものであれば、偶然道から彼女を見る者にとっては思いがけぬ好機であったといえよう。この垣間見により、彼女に一方的に恋焦がれた男が客として近づくというようなドラマも想像できるのである。こうした性格は、女三宮の話に共通しており、「見られる美女」としての遊女の言説面での位置付けが、このような重ね合わせを生んだのだと思われる。当時の遊里において、現実の恋を『源氏物語』や『伊勢物語』などの古典になぞらえていたためかもしれない。当世の遊女を取り巻く環境を、道具立てを組み合わせることによって、そのまま女三宮の垣間見の場面に重ねる工夫がなされている。以上、形態上の類似を伴う「見立て絵」を、大きく三つに分けて把握した。もちろん、「見立て絵」がイメージを重層させる仕組みは、ここで図式化したいずれかにぴったり当てはまるというものではないし、その多様さはこれらに留まらない。これらの中間的・複合的な性質を持つ作例もある。また、多くは上のような仕組みに加えて、人物の衣裳の文様等による暗示を加味することにより、イメージを重ねたもの同士の類似性を補完する。一体化して表すものここで、本研究では措くこととした、イメージを重ねたもの同士を一体化して表すような作例について述べておきたい。こうした例は、特に肖像画に多く見られる。文清筆《維摩居士像》(大和文華館蔵)〔図13〕を例に挙げて見てみることにする。《維摩居士像》は、維摩〔図4〕の像を、禅に帰依した武士、荒川詮氏の肖像になぞらえて描いたものであり、詮氏と維摩とのダブル・イメージを意図するものである(注12)。本図では、かたちや道具立てが維摩に「似ている」といったレベルとは異なり、詮氏の顔の他は維摩そのものである。詮氏に似せて描かれた顔も、長く伸びたひげや眉毛は維摩像に見られるそれであり、維摩その人の顔でもある。本図は、賛に示されているように、言説・形象の明示的意味の段階で、既に「維摩詰の像」であると同時に「玉峰(詮氏)の真容」も備えている。「詮氏の顔をした維摩」であり、「維摩の姿をした詮氏」でもある。先に2−1について、扮装肖像画に近いと述べたが、本図の場

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