鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―460―り、世界の中心軸である天帝の乗る車と、はるか昔から「四方を統一し、陰陽の区別を立て、四季を分け、五行の活動を司る」(注9)と言われる北極星の車の結びつきを示した跡を認めることも可能に思われる。こうした思想を示す図像として、本図の中の北側の木の周囲に集まった8人の菩薩の様子とその配置を見ると、この仮定は信憑性を持ってくる。この空間構成からだけでなく、北の方角を示すものと、中心に位置する釈迦の体との距離が非常に近いということからも、北極星を中心に回る天空図のように菩薩が配置されていると見ることも可能となってくる。また、北斗七星には七つの星以外に、すでに『史記』では「輔星」と呼ばれていた6つ目の星と対をなす小さな星が含まれる。こうした北斗七星と「応徳涅槃図」の8人の菩薩の類似から、この絵の中に輔星に当たる人物の存在を想定することができるはずだが、事実、他の人物より子供らしい姿をした迦葉菩薩をこの輔星と見ることもできる。『大般涅槃経』の一節が(注10)、この人物の若々しさについての理由を説明しているが、これまでの考察から、占星術的な秩序は仏教的なイメージを妨げることなく、逆に周囲と調和していると言える(図33)。「仏説北斗七星延命経」などに現れる七つの星を考察すると、輔星の位置を考慮した場合、「応徳涅槃図」の菩薩衆と以下のような関係を示すことができる:1貪星−観音菩薩  2巨門星−文殊菩薩  3禄存星−普賢菩薩4文曲星−高貴徳王菩薩  5廉貞星−無辺身菩薩6武曲星/輔星−地蔵菩薩/迦葉菩薩  7破軍星−弥勒菩薩また泉武夫氏の研究に示されるように、菩薩衆を指し示す名称に通常の名称とは少し異なるものがある。残念ながらこの問題についてここで掘り下げることはできないが、「文殊」「普賢」という語に先立つ「大聖」「大士」という二つの語は、陰陽道に関係していると考えることも可能である(注11)。あるいは図像的な観点からみて、老年の賢者の存在を示唆するような無辺身菩薩の落ち窪んだ顔が、通有の菩薩の表現とは異なっているという点も、着目すべき事である。最後に、沙羅双樹の枝に下がる薄物の装飾〔図16〕と緊那羅の族竿〔図14〕を観察すると、それらを覆う円形のモチーフの中に、古墳時代に大陸から日本に伝わった星のイメージを見ることも可能である。鎌倉時代に「紋」として大きく発展する以前、実際このモチーフは平安時代の貴族の装身具、織物、装飾品に用いられていたことが文献により明らかになっている。ここで、城南宮に伝わる円形の星のモチーフに着目すると、社伝では、城南宮の日、月、星の神紋は神功皇后の旗印だといわれており、これと同じような神紋が日本海側の若狭湾岸の神社にも伝わっていることから、秦氏

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