鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―461―との関連や、この神紋が航海安全の旗印であったことなどが考えらている。このことを証明する資料は残念ながら存在しないが、歴史的事実から見て「三光の紋」と呼ばれる日本では稀なこの紋様が、おそらく妙見菩薩の図像と同時に大陸から導入されたこと、また応徳三年に白河上皇が城南宮のそばに、自分の離宮を建てさせた時、その紋様を知ったということを推定することができる。3.地蔵薩Å、普賢大士と白河上皇の二つの星大江匡房(1044−1111)が編纂した『江家次第』によると、当時庶民は、毎年正月に自分の属星、天、地、四つの方角を北から順に、次いで大将軍、天一、太白を礼拝していた(注12)。四方拝に重点を置くこうした儀式は、寿命を延ばし、不吉な現象を避けるという意味合いがあった。平安時代から行われていた、暦の日と十二神将、北斗七星を組み合わせる「北斗法」と星辰信仰は、11世紀に貴族文化の中で飛躍的な発展を見る。七つの「本命星」はそれぞれ「元神星」を伴い〔表1〕、前者には延命を、後者には栄達、福禄、無病息災を祈り、この二つの星はしばしば陰と陽の組み合わせの表現とみなされた(注13)。『別尊雑記』や『阿娑縛抄』、『覚禅抄』といった経典から着想を得た多くの図像は、北斗七星、十干十二支、本地仏と薬師十二神将の間にそれぞれ対応関係を打ち立てた。こうした文献の内、『別尊雑記』と11世紀末に比叡山宝幢院に出家した永範による『成菩提集』の二つには、こうした占星術的な対応の原理に関する明確な記述がなされている〔表1〕。こうした占星術的な考え方が、天皇や貴族たちに与えていた強力な影響を考慮すると、「応徳涅槃図」の中にそうした痕跡をより具体的に追究できるのではないだろうか。白河上皇がこの作品の制作に深く関わっていたことを考えると、その制作者、あるいは注文者が、上皇のためにこうした星への信仰を反映させた何らかの「個人的な」印を、この作品の中に取り入れたと想像することができる。1053年、癸巳の年に生まれた白河上皇は、天皇の象徴である北極星に加え、先にあげた文献によると、輔星をともなった6つ目の星、「武曲」と、元神に対応する3つ目の星、「禄存」を特に崇拝したと考えられる。本地仏に関する組み合わせの表を見ると、前者は地蔵菩薩に通じ、後者は普賢菩薩と結ばれていることに気付く〔表1〕。特に興味深いことに、地蔵と普賢の両菩薩が、この絵の中に明らかに描かれており、さらにそれらの位置はまさに武曲と禄存の位置に重なっている。別の言い方をすれば、「応徳涅槃図」の図像は、この二人の菩薩に関しては上記の一致の原理に正確に通じているのである。しかしこのことは、本地仏としても言及されている観音、文殊、彌

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