鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―464―七星延命経』や東寺に保存されている「火羅図」が描くように〔図30〕、白河上皇の命星である武曲星はまさに、十二支の「未」だけでなく、「応徳涅槃図」中の主要な位置、摩Ç羅の頭上にも認められる、上皇の印である「巳」に結びついていることが分かる〔図28〕。蛇と雄羊という十二支中二つの動物が、本図中の数少ない動物の中に選らばれているという事実、そして更にそれらが、この絵画空間を左右対称に分ける線の両極にそれぞれ描かれているという事実は、また新たにこの作品が上皇と、そして星への信仰に、密接に結びついているとうことを示していると考えられる。結論先行研究によって示されているように、4月7日という日付は〔図2〕、4月8日に生まれた釈迦の誕生を記念する日として選ばれたという見方があるが、そうした従来の説を否定するのではなく、銘文そのものの中にも、仏教的な思想と平安時代の占星術的なヴィジョンとの対話を証明し得る、もう一つ別の読み方を試みたい。暦上の一日一日を「二十八宿」に結びつける『宿曜経』上巻の「月宿傍通暦」を見ると、4月7日はまさに「星宿」になっていることに気付く。また、7と4という数字の中に、4本の木の4つの方位、そして亀甲文の周りに配置された北斗七星の七つの星という、二重のイメージの重要な鍵が要約されているということも考えられる。確かに大胆な仮説ではあるが、この銘文が絵画空間そのものの中に挿入されていることを、部分的にではあるが裏付けているといえる。つまり、モチーフ、線、色と同じように、文字もまた二重のイメージに寄与している可能性があるということである。最後に、この絵画に描かれる人物の人数を、特に曼荼羅との比較において考慮することは、拙論の解釈の進展につながると思われる。例えば、9人の弟子を伴う「十大弟子」の内、7人のみが作品の中で描かれているのは、単なる偶然なのだろうか。そこに、「九曜」や「七曜」、あるいは七星への暗示を裏付ける占星術的な背景を見出せないだろうか〔図1〕。さらに、その9人の弟子の1人、劫賓那は、経典の中で、「天文暦数に通じ、知星宿第一」とされていることを考えると、そのことを確信せずにはいられない。院政時代、特に白河上皇の近辺で盛んに起こったような、終末論的な信仰、またこの時代に現れた陰陽道と密教の融合は、死に対する思想、宇宙観、そして何より延命への渇望を鼓舞する涅槃図と星曼荼羅の図像を、互いに結び付ける役割を果たしたと考えることが可能ではないだろうか。

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