注(「応徳三年丙寅四月七日甲午奉冩己畢」) この解釈は、平成15年度博士学位論文「Ôtoku nehan zu, ou- les miroirs d’un paysage cosmique daté■有賀祥隆「高野山金剛峯寺 仏涅槃図」『國華』1263■武田和昭『星曼荼羅の研究』法蔵館、1995年、林温『妙見菩薩と星曼荼羅』(『日本の美術』第■白河院御宇成就院大僧正(寛助)所図進者富世流布曼荼羅也。大僧正今金剛写真蹟今在東寺宝■李 育娟「院政期の北斗信仰と大江匡房−大江督納言願文集−北斗曼荼羅堂願文−」『國語國文』2003年1月を参照。寛助によるこの曼荼羅の着想についての大江匡房(1041−1111)の文書を解釈するの論文は、密教や道教に由来する様々な資料を詳細に分析し、白河上皇の近辺での北斗七星信仰と終末論への熱望の融合を重要視している。■「父上皇崩後の寛仁二年(1018)八月、仁和寺北院において出家。(中略)治安三年(1023)、観音院において伝法灌頂を同じく済信に受け、広沢の法流を継ぐ。除病・安産の修法である孔雀経法の代表的験者として知られ、皇族・貴紳のため、この法を修したことが史料に散見する。」『平安時代史事典』p.1222(古代学協会古代学研究所編、東京角川書店、1994年)■林温 前掲■p.26.司馬遷『史記』巻二十七「天官書」。『史記』には、北極星を「北極紫徽大帝」という天帝とし、周囲の星々をその天帝の臣民であるとした。その中でも、北極星の近くに独特の形で輝く七つの星、すなわち北斗七星は天帝の乗り物であると考えたのである。『大般涅槃経』「長寿品第四」(T.XII No375)泉武夫「応徳涅槃図の図像と表現」『仏画の造形』吉川弘文館 1995年p.207『江家次第』『新訂増補故実叢書』第二、三頁、『日本古典全集』第一、六−七頁武田 前掲■p.141; 239−244―465―年1086」)において初めて行った。377号、1997年)を参照。図版出典一覧図2・5・6・11・14・16・17・21・22・25・26・28・30・31『応徳涅槃図』高野山霊宝館 1999菩提院是西院用来也『星供挙要』『星曼荼羅の研究』武田、前掲■p.91“第二第三亦復如是。爾時衆中有一童子菩薩摩訶薩。是多羅聚落婆羅門種姓大迦葉”図3・7・9・10・13・30武田和昭『星曼荼羅の研究』法蔵館 1995年図4・12・15・18・19・23・27・29『王朝の仏画と儀礼』京都立博物館 1998年図8「妙見菩薩と星曼荼羅」『日本の美術』No.377至文堂 1997年図20・24『曼荼羅と来迎図 平安の絵画・工芸』日本美術全集7 講談社 1991年2001年p.27−28
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