鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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五姓田義松のフランスにおける創作について―469―研 究 者:横浜市民ギャラリー 副館長  柏 木 智 雄はじめに大正元年(1912)12月発行の『美術新報』(注1)に一枚の集合写真が掲載されている。文展の審査委員が発起人となって同展出品画家との親睦会が上野の精養軒で開かれた。その出席者47名の記念写真がそれである。この時の会合がきっかけとなって、翌年、国民美術協会が創立されるだけあって、松岡寿、岩村透、岡田三郎助、小山正太郎、黒田清輝、森鴎外など斯界の有力者の顔がそこにある。その面々の中に、座中最年長の五姓田義松の姿がある。義松は、明治40年(1907)の第1回文展に、「水師営の会見図」を出品し、それを最後に公の展覧会に自作を示すことはなかった。白頭翁となった義松は何を思ってこの会合に出席したのか。大正2年(1913)には、黒田清輝の周旋で自作10点を、翌年さらに4点を東京美術学校に売却して自作を整理している。その黒田清輝の隣に凝然と腰を下ろす義松〔図1〕の脳裏に自身のこしかたへのどのような思いが秘められていたのか。五姓田義松(1855−1915)は、上の『美術新報』で「明治初年より洋画に従事したる老大家」と評される通り、高橋由一(1828−1894)とともに、わが国の近代洋画草創期の主要な画家のひとりとされている。実際、当時の展覧会・博覧会における受賞歴や世評に鑑み、由一に比肩しうる実力者のひとりでもあった。その義松の研究については、日本近代美術研究の先覚者である隈元謙次郎氏の実証的な研究を端緒に、版画家にして近代日本美術の研究者でもあった西田武雄(半峰/1894−1961)による五姓田義松関係の文書史料の断片的な紹介、青木茂氏による半峰旧蔵の五姓田関係文書の翻刻・刊行、神奈川県立博物館(現・神奈川県立歴史博物館)による五姓田義松の大規模な回顧展の開催(1986年)と資料編の充実した図録の刊行、制度としての「美術」成立期における五姓田一派の創作活動の特異性の分析など、少しずつ厚みを増してきた。しかし、由一研究に比して、その後進展していない。その理由の一つとして、義松が近代日本における西洋留学を果たした画家の第一世代に属しているものの、留学期の主たる活動の実態が作品制作(模写を含む)の地平から明らかになっていないことを挙げることができる。そこで、本研究は、義松の西洋(フランス、イギリス、アメリカ、カナダ)留学期の内、もっとも長期に及んだ滞仏期に着目し、その間に認められた日記の分析を手がかりにして、留学期における画事とりわけ模写の実態を明らかにすることを目的とす

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