―470―る。さらに、フランスにおける模写の営みや見聞が、実作にどのような影響を及ぼしたかを考察する。1 フランスにおける動向五姓田義松の西洋(フランス、イギリス、アメリカ、カナダ)滞在期の動向を伝える史料に、『解纜以後各国実記 一』『明治十三年十一月一日ヨリ/日誌/五姓田』『五姓田義松/欧米漫遊実記/第二編』の日記3編(注2)がある。小論では、最も滞在期間が長く、また創作活動の実態も、上の日記などの基本資料によって、比較的詳細に跡付けうる滞仏期(1880年−1886年)をとりあげる。1880年8月26日に始まる(注3)パリ滞在期の内、同年11月1日から始まり1886年12月4日にいたるまでの日記が、この間の義松の動向を伝えている。義松は、頻繁に寄宿先を変えながら、様々な画家と交際し、生活の資を得るために模写にとり組む一方で、サロン出品画も手がけている〔図2〕。その間に、レオン・ボナの私塾に在籍し、アカデミーの大家カロリュス・デュランと知遇を得る一方で、アルベール・デュヴィヴィエをはじめとする在仏画家と交際し、彼らの作品を実見している。また、ルーヴル美術館や旧リュクサンブール美術館などで模写を行い、これらを売却していたこともわかる。実際に、アメリカ人のベヒーヌ(ベーニュ)(注14)は、その後、半ばパトロンのような存在となり、この人物からの需めに応じて制作(主として模写)していることが、これらの日記の記事から読み取れる。1881年に制作された一連の油彩画〔図5、6〕などは、レオン・ボナの画塾において、謹直でアカデミックな人物表現の基礎を修得しつつあったことを伝えている。1883(明治16)年8月26日付で義松が、父芳柳宛に認めた書簡(注15)に次のような行がある。「明治十四年之冬ボナー画学校ニ在テ相認(半日づゝ一週間)候別之全身者二週間月々半日づゝ此画同校ニ而コンクール之節(先ツ日本ニテ大掛槍之如ク)仏人ボールド氏並ニ小子両人先ツ一等之出来ニ而師ボーナーも大ニ喜祝之色を顕申候画故幸便ニ相託御覧ニ入候」。これは、義松自らが、ボナの画塾における修学の実態を示した唯一の記事である。同じ書簡において、ここに記される油画二枚を芳柳宛に送ったことが書かれている。今日、東京藝術大学大学美術館が所蔵する油彩人物画〔図5、6〕などは、書簡にある作品を含んでいる可能性が高いと思われる。上の義松の日記は、古画や模範作の模写、ボナの画塾における教導などを通して、
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