―471―poupée》すなわち《人形の着物》〔図7〕が油彩画として初めて入選を果たすことにBertrand之画れたるVirginie海岸ニ横死之図初めて本格的に油彩技法の正則を修得しつつあった、その過程を明らかにしている。こうして画技の正則を身につけた義松は、実際、1881年および1882年のサロンに入選している。前者は日本の風景に取材した5点の水彩風景画であり、後者は、同じく出品区分はデッサンの部ではあるが、主題がレオン・ボナが得意とした肖像画に変わっている。そして、1883年のサロンでは、デッサンの部に入選した肖像画《Portrait deM.Louis de Courmon》(ルイ・ド・クルモン氏の肖像)とともに、《La robe de laなる。義松にとってサロン入選を果たしたことは、パリの美術界で画家として公認されたことを意味したであろう。したがって、義松の絵は、それが模写であったとしても売れる、すなわち市場価値を持つことができたと考えられる。それでは、義松は、実際にどのような作品を模写していたのであろうか。2 模写した作品義松がパリで行った最も早い模写の事例は、1881年にルーヴル美術館で行ったレオナルド・ダ・ヴィンチの油絵の模写を挙げることができる(注16)。しかし、具体的に同館が所蔵する多数のダ・ヴィンチ画の内、何を写したのかは不明である。以下に、日記から明らかになる模写の事例を見ていきたい。デビンドノ油絵DAVID Jacques Louis(1748.8.30, Paris−1825.12.29, Bruxelles)/ジャック・ルイ・ダヴィッド日記から判明する最も早い実例は、ルーヴル美術館におけるジャック・ルイ・ダヴィッドの油絵の模写である。父芳柳宛の書簡には、「ルーブル(博物館)ニ掲有之候ダビードと云古人之被画たる大油画を(図組ノ巧ナルヲ感シ)模ツシ置他年帰朝之時携帰ルと存シ中バ出來ニ相成候處(後略)」とあり、義松が、とりわけダヴィッドの大作における巧みな構図に関心をもったことが示唆されている(注17)。このダヴィッドの油彩画についても、目下、その作品を特定するにいたっていない。この時の模写については、アメリカのペンシルベニアのBradford在住のBagne(ベーニュ)が購入を申し出た経緯が、義松の書簡から明らかになっている(注18)。この模写の原画を特定するには、ベーニュの遺品を確認するほかに方法はないと思われる。
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