鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―475―ンダのMetsuやTerborchに近い様式を示していたとされている。Gabriel METSU(1629−1667)の《The Sick Child》〔図17〕に見られる母子の細やかな情愛の描写や、Gerard TERBORCH(1617−1681)の風俗画〔図18〕の画面右下に描かれる母と子の何気ない所作の表現には、《人形の着物》との共通性を見出すことができる。義松は、パリに到着して間もない1880年11月11日に、エコール・デ・ボザールを山本芳翠を同道して訪ねた時、日記に「和蘭有名ノ油絵解剖ノ図レーンブラーン画ヲ某カ模写セシ物ノ模画モ有ル」(注26)と特記している。17世紀オランダ絵画の諸作をルーヴル美術館等で実見する機会は少なからずあったはずであり、それらを通して《人形の着物》に見られるような人物や空間の表現を身につけた可能性は検討されるべきだろう。また、翌年に制作された《クリュニー美術館》〔図19〕にも、17世紀オランダ絵画の建築内部の描写に通じるような空間表現〔図20〕が見られる。この《パリの風景》で試みたような風景表現と、《人形の着物》に見られるような風俗描写を、複雑な群像構成によって統合しようと試みた作品が、《操芝居》〔図21〕であったと思われる。画面の左下に「YoshiMATsu Gocéda 1883Paris.」と年記・署名があり、あたかも擱筆したかのようであるが、画面は明らかに未完である。日記の1882年5月26日の行に「始メテアトルアミユザノ油画ニ取掛ル」の記事が見られるものの、それ以降、この作品の制作に関する記事は一切認められない。義松は、ボナのもとでアカデミックな人体表現を学び(図5、6)、イシドール・ピール、シャルル=エドゥアール・ボモンらの作品(図10、11)の模写を通して、様々な姿態の群像を大構図にまとめていく手法を実地に学んでいる。また、その画業において風俗に取材した作品を最も多く遺した義松にとって、庶民の日常を活写した17世紀オランダの風俗画は、魅力的な参照源となったことが想定される。実際、《操芝居》に見られる性別も衣装も異なる多様な所作の人物群には、模写で学んだ群像表現とともに、17世紀オランダの風俗画に見られるそれとの類似〔図22〕を指摘できるだろう。そうした観点から見ても、《操芝居》は、滞仏期の自らの画業を総括するに相応しいテーマであったはずである。しかし、未完に終わっている。あるいは、今日《操芝居》の画題で伝わる作品を未完成作とみなすのではなく、多様な人物群をひとつの画面にまとめていくための、予備的な画稿・習作と仮定してみる必要があるのかもしれない。ともあれ、《操芝居》の制作は、様々な画家との交際、他者の作品の実見そして模写などを通じて、日本にあっては修得できなかった本格的な油彩画の技法を初めて血肉化し、自身が最も得意とした主題すなわち風俗画にこれを応用する最適の機会とな

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