鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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注「彙報追加 洋畫の一大團體成る」『美術新報』、1912年、32頁 義松の滞仏期の動向の一斑を伝える史料としては、他に、書簡を挙げることができる。日記および同書簡の翻字は、(展覧会図録)『開館20周年記念展/神奈川芸術祭特別展 明治の宮廷画家──五姓田義松』、1986年に収められている。■上野景範(明治12年まで駐英特命全権公使)宛の明治13年9月4日付の義松の書簡に「下而私義も船中無過八月二十六日仏国首府へ安着仕候間此段御休意乍憚被成下度」(国立国会図書館蔵)という記事があり、義松のパリ到着が、8月26日であったことが判明している。尚、同書簡が初めて紹介された文献は、青木茂編・校註「五姓田義松の滯歐米關係史料」、『神奈川県立近代美術館年報 1981年度』、神奈川県立近代美術館編集・発行、昭和58年、39頁である。■1880(明治13)年11月1日、フランス人のアルプーレドなる人物を同道して訪ねたアルベール、―476―ドビエとは、画家アルベール・デュヴィヴィエ(Albert DUVIVIER)である。義松は、その後、デュヴィヴィエと親交を結んだと思しく、1882(同15)年3月16日から22日にかけて同人の宅に止宿しており、その後も食事を饗応された旨の記事が日録に頻繁に見られる。そして、同年のサロンのデッサンの部にデュヴィヴィエをモデルにした《Portrait de M.ったはずである。まとめ美術史家のセオドア・レフは「ルーヴル美術館の模写画家たち:1850年から1870年まで」と題する論文(注27)において、印象派とその周辺の画家が、実はルーヴル美術館で古典絵画の模写に取り組んでいた事実を実証し、モダン・マスターにとっても、模写が画業を深めていく上で重要な役割を担っていたことを明らかにした。義松の留学期は、経済的な破綻とこれに伴う生活の荒廃が強調される傾向にある。確かに、義松の日記は、破天荒な生活ぶりを暗示する記事を多く含んでいる。しかし、一方で、レフが明らかにしたモダン・マスターたちの取り組みと同じように、古典絵画やサロン出品画を模写し、当時パリに居た画家の多くが従事した極めて常套的な画技修業に着実に取り組んでいたことも伝えている。《操芝居》は、その過程で修得した風景表現と群像表現を融合して、風俗画に新境地を開こうとした意欲作であったと評価しても良いだろう。今後は、アメリカ、ペンシルベニアのピッツバーグ大学やカーネギー美術館、ピッツバーグの歴史資料館などの機関を調査対象にして、義松のパトロンであったベーニュの情報を収集し、その遺品を探索して、1880年代の日米美術交渉の一側面を明らかにするとともに、留学とその成果が、衰頽したと評される義松の帰国後の画業に、いかなる影響をおよぼしたのかを明らかにしていきたい。

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