■1880(明治13)年12月23日の日記には次のように記述されている。「午後三時過より最上氏と共ニ油画々工ウイリヘム氏(ベルジークノ人先ニ当地ニ来リ今衆人ノ需ニ応ル)之居宅ヘ至リ薄暮ニ及デ帰宿す」。活動期が義松のパリ滞在期と重なるベルギー人画家で、その閲歴を比較的詳細に確認できる唯一の画家として、フローラン・ウィレム(Florent WILLEMS)を挙げることができる。WILLEMS Florent(1823.1.8, Liege-1905.10, Neuilly)/フローラン・ウィレムは、風俗画家・肖像画家あるいは修復家・装飾家として知られた画家で、1844年にパリに落ち着き、以後、同地に住んだ。画家・修復家としてその才能を知られ、ルーヴル美術館所蔵のラファエロの《聖ヨハネ》(Saint Jean)の修復を手がけた。17世紀オランダのMetsuやTer Borchに近い様式を示していた。E. Bénézit, ibid., tome14.■ここに記されるHanoteau氏とは、その活動期に照らして、風俗画、寓意画、裸体画、肖像画、風景画(水辺の風景画)の画家として知られるフランス人画家エクトル・アノトー(HectorHANOTEAU)に同定される。HANOTEAU, Hector Chales Auguste Octave Constance(1823.5.25, Decize-1890, Briet)/エクトル・アノトーは、1849年、パリのエコール・デ・ボザールに入学し、ジャン=フランソワ・ギグー(Jean-Francois Gigoux)のアトリエに入った。1847年から1882年までのパリのサロンで異彩を放ち、1870年にはレジョン・ドヌール勲章を受章している。主として庭園、公園、森や池を描いた。E. Bénézit, ibid., tome6.■1881(明治14)年3月6日の日記に次のように記載がある。「午前十時頃ニ画工Boulon氏之宅ヘドビーヘ氏ト共ニ至リ種々之画を見物して帰宿す氏之写す所之画其ノ真ヲ画クト雖モ話働ノ気インニ乏シク筆力足らず」。画家事典の記事に唯一、ジュール・C. ブロンの名が見える。義松が、「気インニ乏シク筆力足らず」と評したこのフランス人銅版画家の詳細は不明である。BOULON Jules C.(Pinal生まれ)/ジュール・C. ブロン。E. Bénézit., tome2.■1880(明治13)年8月26日にパリに到着した義松は、およそ半年後の翌年3月11日、アカデミーの画家レオン・ボナの画塾を初めて訪れ入門している。この年、ボナは学士院会員(membrede l'Institut)に選ばれ、名実ともにアカデミーの画家として確固たる名声を築いていた。義松の日記には、ボナに関連して次のように綴られている。「午前八時より始テボーナーノ画覧校ヘ至ル」(明治14年3月11日)「夜ハボーナーノアトリヘニテ大夜会有」(明治14年4月8日)「午前八時半ボーナー氏之宅ヘ持参す博覧会出品之油画を」(明治15年3月7日)。日記に見る限り、義松がボナに就いて学んだのは、1882(明治15)年、もしくは、1883(同16)―477―Albert Duvivier》(アルベール・デュヴィヴィエの肖像)が入選している。日記に頻繁に登場する「ドビエ」「デービーエ」「デビーヘ」「デービヘ」は、いずれも、画家アルベール・デュヴィヴィエに同定される。DUVIVIER Albert Ludovic Paul Émile Antony(1842.1.28, Nevers- ?)/アルベール・デュヴィヴィエは、歴史画家イシドール・ピールに師事した画家・版画家で、1869年から1882年まで、サロンに出品した。1882年のサロンでは、Mention honorableを得た。代表作に《La fin du repas》がある。E. Bénézit, Dictionnaire critique et documentaire des peintres sculpteurs dessinateurs et graveursde tous les temps et de tous les pays par un groupe d’rivains spécialistes français et étrangers, tome 4,Gründ, 1999.
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