レオン・ボナの画塾を訪れてから、およそ2週間後には、義松は、アカデミーの大家カロリュス=デュランのもとを訪い、その作品を実見していることがわかる。しかし、同画家との関わりを示す記事は、遺された日記・書簡のいずれにも、上記以外に見出せない。義松は、滞仏期に数度にわたってサロン入選を果たしている。義松が日本人によるサロン入選者の最初であるとする説(隈元謙次郎「五姓田義松について」、『近代日本美術の研究』、94頁)もあるが、百武兼行が最初の入選者であるとする異説もある(鹿子木孟郎談『大阪毎日新聞』、大正2年)。いずれにせよ、義松はサロン入選の最も早い日本人のひとりであることに間違いはない。《Portrait de M. Albert Duvivier》が、これに該当するものと思われる。《人形の着物》(La Robe de la poupée)がこれに該当する。この作品が、当時特命全権公使としてパリに在住した蜂須賀茂韶が購入し長く同家に所蔵されていたことなどが、以下の文献に詳述されている。陰里鉄郎「図版解説──五姓田義松《人形の着物》」、『美術研究』(第313号)、1980年5月、104〜107頁。義松の日記に転宅先として記されるRue Bonaparte no.16は、エコール・デ・ボザールの所在地にあたる。当時、同校にアーティスト・イン・レジデンスの制度があったのか否か、今後の調査課題としたい。明治14年9月10日付の五姓田芳柳宛義松書簡(神奈川県立歴史博物館所蔵)に以下の記述がある。「(前略)米国パンシルベーと云處ノ國立銀行之社長ベーイヌと云人数々來視テ大ニ賞感して致買求度ニ付價何程なる哉と申入候ニ付(後略)」。後の日記の記事から、ペンシルベニアのBradford在住のBagne(ベーニュ)という人物であることがわかる。尚、ベーニュの銀行がペンシルベニア・ナショナル・バンクであるならば、ブラッドフォードではなく、ピッツバーグを拠点にしていた可能性が高い。(展覧会図録)『開館20周年記念展/神奈川芸術祭特別展 明治の宮廷画家──五姓田義松』「五姓田義松年表」、(展覧会図録)『開館20周年記念展/神奈川芸術祭特別展 明治の宮廷画家注14の書簡参照。 注14参照。■E. Bénézit, op.cit., tome2. 以下の文献には、1872年から1889年まで、旧リュクサンブール美術館に所蔵され、現在シャトールーのベルトラン美術館が所蔵する作品として、白黒図版が掲載されている。青木茂編・校註「五姓田義松の滯歐米關係史料」、前掲『神奈川県立近代美術館年報 1981年度』。原図のデータ・来歴については、シャトールー美術館のカタログ【J. Beulay, Catalogue du Musée leChˆateauroux(Chateauroux: Badel, 1910), 11】に次のように記されている。Haut. 0m.95; larg.1m.80.─Salon de 1869.Atribué au Musée par l’Etat, en 1890, sur la demande de M. E. Forichon, alorsCoseiller à la Cour de Cassation, aujourd’hui Premier Président à la Cour d’Appel de Paris, Sénateur del’Indre, notre compatriote. ■ローザ・ボヌールは、人物画、動物画、風景画の画家として知られ、水彩画・彫刻・素描でもその名を知られた女性画家である。画家であった父レイモン・ボヌールに絵を学び、後に、コ―478―1986年、213頁。年の前半までであったと思われる。同時にこの頃から、義松の日記には借金の備忘と経済的な困窮を窺わせる記事が増え始め、留学生活が二年目にして破綻しつつあることがわかる。──五姓田義松』では、そのことが書簡から明らかになることが示されてある。
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