―485―のが芸術という概念の中でどのような位置を占めるのかを確認するところから始めなければならないが、その検証は他に譲ることとする。村野と美術の距離を読み解くにあたって、重要なキーワードが存在する。それは、「美術建築」である。村野は、自らの著書やインタビューにおいて「美術建築」という言葉を用いている。建築を社会的芸術(注3)と呼ぶ村野がこの言葉に込めた意味をその作品、設計図面、言論などを通じて検証し、村野が建築と美術の関係をどのように捉え、実現しようとしたかを明らかにしようとするものである。前出の図録「イメージと建築」において木下直之は、「村野の年譜を眺めているうちに奇妙な言葉に気がついた。戦争中に村野は『美術建築家』とみなされて、工場や兵舎の仕事をまわされなかったと言うのだ。今では死語となったこの呼び名も、戦前まではだいぶ使われたらしい。村野自身がすでに『様式の上にあれ』の中で、こんなふうに書いている。『私達は、時折、装飾のベタクサ附いた構造物よりも鉄筋コンクリート其のまゝの倉庫や黒く塗られた鉄骨工場に、美術建築の真の意味を感ずることがある。』おそらく、村野藤吾を『美術建築家』と呼んで揶揄した人物の頭には、実用一点張りの倉庫や工場とは正反対の『装飾のベタクサ附いた構造物』の姿が思い浮かんでいたであろう。」(注4)と「美術建築家」という言葉に注目している。生誕100年記念村野藤吾展の年譜によると、「戦時中は美術建築家として仕事から遠ざけられ「資本論」など経済の本を読む」との記載がある。このフレーズの出所は明らかではないが、藤森照信は著書の中で、戦時中村野が軍に工場の仕事をもらいに行って、「お前のような芸術的なヤツにはやる仕事はない」と言われたことを聞いたと記しているので、それは事実であろう(注5)。森五商店、宇部市民館、そごう百貨店、大庄村役場などでいち早く世に認められた村野であるが、村野を美術建築家と呼んだ記録は、今のところ確認できない。村野は戦時中を振り返って著書やインタビューで「美術建築」という言葉を特別な思いで用いているが、皮肉にも戦時下という非常事において批判的な響きを持って「美術建築」という言葉が現れている。4.戦時下における村野作品及びその評価1930年代後半から40年代前半にかけての時代の空気と村野に対する評価の一端を日中戦争勃発後の1938年に発刊された新建築における「芦屋某氏邸」に関する作品解説文に見ることができる。「我々には凡ゆる細部に作者の意識が凝固しているのを感ずることは出来る。内部仕上から個々の家具まですべて強固な雰囲気の中に結ばれている。しかもこの雰囲気はあまりにも強固であり、自己を主張しすぎるのではあるまい
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