鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―487―い密度の濃さの表れと言えよう。また、同じ年の新建築に都ホテル宴会場が掲載されている。誌面から梁や壁面の日本画風のペイント装飾や村野がデザインした照明器具が確認できる。宴会場展開図(V−002−C−37)〔図3〕から床:簡単なる寄木張り、壁:シナ白ラワン又ハベニヤ厚サ5分7枚透明ラッカー仕上げ、天井:杉ペンキ塗り梁型共との記載が確認できる。壁面や梁型に日本画が描かれているが、それについては「壁:ホワイトパインラッカー仕上げ、絵模様別途工事」とある。作品紹介文では「率直な内部仕上と大きな開口面がデリケートにまでデザインされた照明器具或いは壁面装飾によって十分な気品がかもし出されている。」(注10)と表記され、同じ戦時中でありながら、住宅である「某氏邸」とは随分論調が異なっている。仕様は、艤装のそれとは比較にならない一般的なものである。梁などに日本画風の文様があしらわれるが、仕上は「杉ペンキ塗り」である。しかし、効果的に絵画などを採り入れてホテルに求められる華やかさを表現している。志摩観光ホテルの機関誌「浜木綿」に掲載された村野の文中に戦時中鈴鹿の海軍将校倶楽部を設計したことを回想した部分があり、そこに「美術建築」の表記が現れる。「これまで、航空隊関係の仕事は松山でもやったが、多くは兵舎や格納庫のようなものばかりで、今度のように将校集会所、つまり、将校倶楽部のようなものは始めてであった。いわば、美術建築に類するものなので、簡単に設計するわけにはいかぬ。」「同じ海軍であっても航空隊は別格であって、第一食事からしてちがう。アメリカでも同様である。先年、コロラドの空軍用の建築が有名なので同地を訪ねた際に感じたことだが、すぐれた建築群の中でも教会堂の建築は殊に美しかった。若い将校が荘厳な祈りを捧げている姿を見て心を打たれたことを思い出すとともに、アメリカ海軍がいかに空軍将校を大切にしているかわかったように感じ、優遇している点では彼ら同様であると思ったものである。」「鈴鹿の集会所は木造平屋建、一部二階つきで延べ七百から千坪程度の規模のものであったと思う。かなりな大空間もあって当時としては、ことに物皆不自由な頃でこの程度の建築、純粋に軍用のものなら格別、一種の美術建築なので、私はその成否を疑ったほどである。」(注11)文中から「美術建築」とは、特別な建築を指し、簡単に設計できないものと位置づけていることがわかる。それなりの物資が求められるものであり、かなりの決意で設計に臨んだ特別なものとして語られている。「美術建築」は村野における建築の1つの理想形であり、その語り口には憧憬に似た響きすら漂っていると言えよう。

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