―488―5.村野藤吾にとっての「美術建築」「美術建築」について、晩年村野は、日本板硝子社広報誌「SPACE MODULATOR52」(取材:1972年)で長谷川尭のインタビュー取材において、戦時中に宇部油化工業の工場を設計したことについて次のように語っている。「私は工場なんて美術建築だと言うのですよ。美術建築というのはそこに人間がいるということです。人間がいる以上は「美術建築」でないといかんというのですよ。なにも美術建築だからきれいにするというわけではない。工場だから汚くしていいという考えは間違いである、といいたかった。〜中略〜それは人間がいるから、そこで労働するからそれを「美術建築」という考えでやる。」宇部油化工業の設計図面に装飾的な要素は確認できない。この工場群の設計図面の特徴は、建物毎に様々な形式を持つ構造躯体である。それぞれの構造図面、硫安倉庫(AN.4955−10)〔図4〕、焙焼炉(AN.4955−03)〔図5〕、合成工場新築工事矩計図(AN.4955−17)〔図6〕にその特徴が現れている。硫安倉庫(AN.4955−10)は放物線状のアーチがスカイラインを形成する。焙焼炉(AN.4955−03)は、切妻形状で、屋根勾配に従って架けられた梁を曲率の緩いヴォールトが一本ずつ覆う形状である。換気の機能を造形的に構成しようとした試みである。屋根スラブを軒先で折り上げてその谷間を樋に見立てている形状などは他に類を見ないものである。合成工場(AN4955−17)はシェル構造の屋根が連続する形状を持つ。半径2500mmのヴォールトが連続した形状であるが、その繋ぎの谷の部分も半径が小さな円弧となっている。その半径は1250mmを最大とする、500mm、150mmの3種類のバリエーションを持つ。その美しいリズムに物資統制の極限状態の中においても村野が志向した「美術建築」のかたちに他ならない。残された表現の場は、躯体形状しかなかったのである。様々な表現技術を持ち、「構造は(技術的な)手段である」(注12)と考えていた村野が為しえた数少ない事例であり、ここに村野の設計思想の真骨頂が示されている。戦前、既に名声を確立していた村野であるが、鉄骨フレームにガラスブロックをあしらった読売会館(1957)や鉄骨コンクリート造の建築を石張りで表現した日生劇場(1963)が発表されたとき、構造と表皮の乖離が東京の建築ジャーナリズムを中心にモダニストたちの批判が集中した。村野は、装飾的な意匠も手掛ける建築家であった。そのことが、村野を堕落した「装飾建築家」(悪意を込めた呼称としての「美術建築家」)であると誤解されることにつながったと言えよう。「SPACE MODULATOR(前出)52」のインタビューは、1972年に当時を振り返って語ったものである。設計した当時、「人間がいるから、そこで労働するからそれを
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