鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―489―「「美術建築」を志向する者への仕事はない」と一蹴される不遇を経験するが、それは「美術建築」という考えでやる。」という境地にまで至っていたかどうかは、定かではない。むしろ長年の仕事の中で村野が見つけた結論がここにあると考える方が自然であろう。6.結論美学、美術史上名著とされるその著書リオネッロ・ヴェントゥーリ(1885−1961)の「美術批評史」1978、訳辻茂沢みすず書房1971年)に読む「現代建築」p.306に参照を待つまでもなく、「構造と装飾の同一性の必要を確認」し建築「空間と機械文明の熱烈な生命の次元を強調」するのが現代建築家の使命であるのなら、機能と合理を主張とする建築概念から距離を保ちつつ、独自の建築美学を追求する村野の立場と姿勢は美術建築を肉化する作業に他ならない。過多な装飾を鏤めた建築空間ではなく、そぎ落とした装飾の中にこそ構造の美を生ぜしめる建築躯体の無味乾燥な物としての建造物ではなく、積極的に建築を芸術としてあらしめるものである。戦時中、軍から芸術や美術は大略装飾過多現象と認識されていた事の反証であろう。また、「あるぜんちな丸」の艤装を巡っても同感である。大型船舶建造の気運が高まる中、当時偽装にたずさわった建築家同様村野が手掛けざるを得なかった趣味は、「日本」を海外に広めるための「新日本調」と言われるもので発注者側の意図でもあったのである。そういった趣旨により日本の象徴としての伝統工芸の粋を集めて艤装に傾注することが後に贅に走ったものと映って誤解を生んだこともあろう。村野は、「様式の上にあれ」に次のような一文を記している。「吾等が価値とし、そして、吾等の思索が現実と一致しなかった時に起る苦痛の高価な反語は、如何にして真実に人間を養ひ、如何にして人間により高い香を彼等の感情のうちに見出すことを得るか、又如何にして人類を聖なる、より純一なる高い境地へ歩ましむるかと云ふ、私の建築家としての義務を果たすことである。」(注12)建築とは何か?建築に何が可能か?との問いは、いかなる建築家も持ち続けるものである。村野藤吾にとってその問いに対するひとつの答えが「美術建築」であり、美術とは「人間により高い香を彼らの感情の見出すことを得」させ又「人類を聖なる、より純一なる高い境地へ歩ましむるもの」であった。村野にとって美の基準とは、様式や表現方法によるものではなく、あくまでもその建築を体験する人間、建築と共に生きる人間の視点に立って決定付けられるものであったと言えよう。

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