注岡林直方、「村野藤吾の第三の立場とその設計方法の源泉について」日本建築学会計画系論文 竹内次男、「村野藤吾建築図面受け入れ並びに整理経緯を巡って」『村野藤吾設計図展カタログ』、■村野藤吾、「社会的芸術としての建築を作るために」『新建築』1980.01■木下直之「建築と美術・村野藤吾の場合」『イメージと建築』、新建築社 1991.10■藤森照信「昭和住宅物語」新建築社、1990、225頁■「某氏邸」『新建築』新建築社、1942年、98〜103頁■「あるぜんちな丸」『新建築』新建築社、1939.07、319頁■「建築美を探る8章」『国際建築』1955.04「渡辺節先生の死」『新建築』1967.03にて、渡辺節のもと、20分の1が常識であった詳細図を50分の1で描くことにより、図面の合理化を図ったことを記している。村野事務所の詳細図も50分の1が基本となっている。「都ホテル宴会場」『新建築』1939.05、222〜225頁村野藤吾「志摩観光ホテル創建の頃、前後」、「浜木綿」所収、1979.12対談「設計態度」『近代建築』1964.01など同様の発言を行っている。―490―謝辞本稿をまとめるにあたり、京都工芸繊維大学大学院の竹内次男教授、船越暉由教授には懇切丁寧な指導を頂いた。村野家の故村野漾氏、MURANO DESIGNの村野永氏、福井康人氏、大泉武雄氏ならびに村野、森建築事務所OBの柳眞也氏には、長時間にわたってヒアリングに協力していただいた。また、村野藤吾の設計研究会の皆様には村野研究において、平常から貴重な助言をいただいた。ここに記して、感謝の意を表する。集 492号、1997.2京都工芸繊維大学美術工芸資料館・村野藤吾の設計研究会、1999.11に詳しい
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