鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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Fヴィテルボの《ピエタ》における―506―セバスティアーノ・デル・ピオンボとミケランジェロ研 究 者:ヴェネツィア大学 美術史単科コース在籍  伊 丹 陽 子はじめにセバスティアーノ・デル・ピオンボ(本名、セバスティアーノ・ルチアーニ)(ヴェネツィア1485年頃−ローマ1547年)は、初めジョヴァンニ・ベッリーニのもとで、その後ジョルジョーネに師事しながらその芸術を継承し(注1)、ヴェネツィア時代にすでに画家としてのスタイルを確立しており、公的な注文においても優れた作品を制作している(注2)。彼は1511年アゴスティーノ・キージに請われてローマに赴き、(注3)その後1528年に一時ヴェネツィアに滞在するが、1529年には再びローマに戻り故郷に足を向けることはなかった(注4)。セバスティアーノはヴェネツィア派の色彩と風景描写を学び、トゥッリオ・ロンバルドなどの彫刻に強い関心を寄せ、ヴェネツィア時代の絵画作品にその興味を反映させることに成功している(注5)。そしてローマでのミケランジェロとの出会いによって、彫刻的な重量感のある人物表現をより成熟させた。セバスティアーノはミケランジェロと親交し、彼の素描をもとに作品を制作している(注6)。ヴァザーリによれば、ラファエッロへの評価の高まりに対抗意識を抱いていたミケランジェロは、彼に対抗するためにセバスティアーノに素描を与えて協力したと推測される(注7)。それらの作品として、現在ヴィテルボの市立美術館に所蔵される《ピエタ》〔図1〕、サン・ピエトロ・イン・モントーリオ聖堂ボルゲリーニ礼拝堂のフレスコ、サンタ・マリア・デル・ポーポロ聖堂キージ礼拝堂のための《マリアの誕生》、ナルボンヌ大聖堂のためにラファエッロと競作した《ラザロの蘇生》や現在セビリアにある《ピエタ》が挙げられる。ここでは、ミケランジェロとの最初の芸術提携に成功したヴィテルボの《ピエタ》について、注文主の思想、ミケランジェロとラファエッロの関係を考慮しながら、その特異な図像と暗示的な廃墟のある夜景の意味を探求したい。1 ヴィテルボの《ピエタ》と壁面墓碑この作品は、教皇庁の聖職者ジョヴァンニ・ボトンティによって、彼の故郷ヴィテルボのサン・フランチェスコ・アッラ・ロッカ聖堂ボトンティ礼拝堂のために依頼された(注8)。月夜の荒廃した村を背景に、横たわる死せるキリストを前に堂々たる

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