鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―508―「とりなしの聖母」の意味との関係を明らかにしたい。タ》により近似するのは、パオロ・ロマーノ《教皇ピオ2世の墓碑》(サンタンドレーア・デッラ・ヴァッレ聖堂)、アンドレーア・ブレーニョ、ミーノ・ダ・フィエーゾレ、ジョヴァンニ・ダルマタ《枢機卿ピエトロ・リアリオの墓碑》(サンティ・アポストリ聖堂)〔図2〕、ブレーニョ派《枢機卿アントーニオ・パッラヴィチーニの墓碑》(サンタ・マリア・デル・ポーポロ聖堂)〔図3〕である。セバスティアーノの《ピエタ》の注文主ボトンティ、2人の共同制作者セバスティアーノとミケランジェロは、上記以外にも当時ローマで多数制作された聖母子と死者横臥像がピラミッド構図を形成する壁面墓碑を良く知っていたであろう。特に、ミケランジェロは彫刻家としてより強い関心を抱いて、墓碑彫刻を詳細に観察していたに違いない。彼は1494年フィレンツェを逃れてボローニャに滞在した際、《聖ドメニコの石棺》のために制作したサン・ドメニコ聖堂においてもこうしたタイプの墓碑を目にしているかもしれない(注19)。また、彼は16世紀初頭に壁面墓碑のトンドの聖母子と関連すると思われる円形浮き彫りの聖母子を2点制作している(注20)。さらに、ミケランジェロの《教皇ユリウス2世の墓碑》〔図4〕のための素描にも、聖母と横臥像の配置において類似のアイディアがみられる(注21)。《教皇ユリウス2世の墓碑》のための第3次案(1516年)では、立像の聖母子の下部にエンジェル・ピエタのように天使に支えられたユリウス2世の像がみられ、第5案(1532年)では完成作と同じように、上体を起こして横たわるユリウス2世の上に立像の聖母子像が置かれている(注22)。フィレンツェからヴェネツィア、ボローニャを経てローマに至り、彫刻家ミケランジェロの中で壁面墓碑の構図を主な形態的源泉として、ヴィテルボの《ピエタ》にみられる聖母と横臥する死せるキリストの特異な配置が生まれたのかもしれない。墓碑の死者横臥像と聖母の構図をこの《ピエタ》に導入することで、墓碑の上方に位置するマリアが死者の魂の救済への願いを神にとりなす役割を果たすように、ヴィテルボの《ピエタ》におけるマリアに「とりなしの聖母」の意味が付加されることになる。《ピエタ》における聖母マリアの特異な現れ方は、聖母のとりなしの役割にその一因を負うのではないだろうか。次節では、注文主による聖母崇拝とヴィテルボの《ピエタ》のマリアにみられる2 ヴィテルボの「救済の聖母」《ピエタ》の注文主ジョヴァンニ・ボトンティは、おそらく1489年から教皇庁の聖

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