―509―職に就き、その後も教皇庁での地位を保持したようである。ローマでのボトンティの住居は、パラッツォ・デッラ・カンチェッレリーアの近くであり、そこで彼は枢機卿ラッファエーレ・リアリオの右腕として働いた。枢機卿リアリオは有力な銀行家アゴスティーノ・キージの友人であり、ボトンティは公務を通して、あるいは共通の友人であるシエナ出身の教皇庁書記長フィリッポ・セルガルディを通してキージと知り合い、ヴェネツィア画家セバスティアーノを知ったのであろう(注23)。また、ボトンティと同郷の友人であるアウグスティノ修道会の神学者エジーディオ・ダ・ヴィテルボ(注24)と交わした書簡から、ボトンティがエジーディオを尊敬し彼の思想に傾倒していたこと、彼らがヴィテルボの村を救った「救済の聖母」への特別な信仰心を抱いていたことが明らかである(注25)。この「救済の聖母」は、現在もアウグスティノ修道会の教会に残るグレゴーリオとドナート・ダレッツォ作《聖母子》(板、テンペラ、14世紀)〔図5〕の聖母マリア像と信じられている(注26)。1320年5月27日に激しい嵐がヴィテルボを襲った時、村人たちはアウグスティノ修道会の教会、サンタ・トリニタの聖母像に祈り、奇跡的に村は救われた。それ以来、ヴィテルボでのこの聖母マリアへの信仰はとても厚く、1334年から始まった祝祭は5世紀以上続けられ、その宗教行列には村中が参加し奇跡をもたらした聖母を崇拝した(注27)。1503年には、神学者エジーディオが宗教行列の後に「救済の聖母」を称えて説教している(注28)。この「救済の聖母」はエジーディオの書簡にみられるように、「悪魔、暗闇、長く続く夜」からヴィテルボを救ってくれた守護者である(注29)。激しい嵐に襲われたヴィテルボでは、強風が吹き荒れ、暗闇にとざされ、悪魔や罪がはびこる夜が続いた。その恐怖から救ってくれたのが、アウグスティノ修道会の教会、サンタ・トリニタのマリアであった。セバスティアーノの《ピエタ》において、画面左には崩れた建物の残骸、強風を受けた木々、さらに遠くには赤橙色に燃える火が小さくみえ、右側には壊れた木の柵のある小屋が描かれている。聖母の姿とその背景の暗闇に包まれ荒廃した村の情景は、注文主ボトンティはもちろんのことヴィテルボの人々に1320年に村を襲った激しい嵐とその時の奇跡を思い起こさせたに違いない。つまり、闇夜の荒廃した風景は、画面を大きく占める聖母の姿と結びついて、奇跡的にヴィテルボを救ったマリアを喚起させることになる。村を救うために神にとりなしをしてくれたマリアのイメージは、壁面墓碑における聖母と死者横臥像の配置を採り入れることで、さらに《ピエタ》の聖母にとりなしの意味を強める効果として作用しているのではないだろうか。また、1320年の悪夢を連想させる夜景を描く事で、先行するジョルジョーネの夜景図の系譜
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