鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
524/589

アンドレーア・ブレーニョ、ミーノ・ダ・フィエーゾレ《クリストーフォロ・デッラ・ローヴェレの墓碑》(1478年頃)、ブレーニョ派《ピエトロ・グリエルモ・ロッカの墓碑》(1482年頃)、ブレーニョ工房《枢機卿ルドヴィコ・ポドカスタロの墓碑》(1504年頃)、ブレーニョ派《枢機卿アントーニオ・パッラヴィチーニの墓碑》(1507年頃)、ブレーニョ派《ポルトガル枢機卿ジョルジョ・コスタの墓碑》(1508年頃)。また、サンタ・マリア・デル・ポーポロ聖堂では、フランチェスコ・サンガッロ、アンドレーア・サンソヴィーノの壁面墓碑にも聖母子と死者横臥像が含まれる。Bentivoglio, E., Valtieri, S., Santa Maria del Popolo a Roma, Roma 1976, pp. 48, 73−75, 84−86, 91−93. fig. 46, 47, 55, 56, 83, 84, 87, 90. パオロ・ロマーノ《教皇ピオ2世の墓碑》(1470−75年頃)。アンドレーア・ブレーニョはロマーノから工房を引き継いだ。また、この聖堂には死者横臥像の上部に聖母が現されたフランチェスコとセバスティアーノ・フェッルッチ《教皇ピオ3世の墓碑》(1503年頃)がある。Tolnay,C. de., Michelangelo,vol. 4, The Tomb of Julius Ⅱ, Princeton 1954, fig. 227−228.■フランチェスコ・シモー0ネ《アレッサンドロ・タルターニの墓碑》(1477年頃)。死者横臥像の上部には美徳の3擬人像が位置し、その中央は幼児を抱く慈愛の座像である。聖母子はルネッタ部に現されている。Arnoldi, op.cit.,pp. 172−173.  塚本博「ミケランジェロによるサン・ピエトロ大聖堂の《ピエタ》の眠りと死について」『美■M・ハーストが指摘したように、ヴィテルボの《ピエタ》が依頼されたのはミケランジェロが《教皇ユリウス2世の墓碑》のための改訂案にとりかかった時期である。この《教皇ユリウス2世の墓碑》とヴィテルボの《ピエタ》との関連性は、ラケル像(1513年)と《ピエタ》にみられるマリアの姿勢の類似とそのポーズが同概念(瞑想的生)によるものであることからもすでに指摘されている。Hirst, op.cit.,1981, p.45. Barbieri, C., ‘Disegno fiorentino, colore veneto e altrisignificati emblematici della Pietà’, in Notturno Sublime: Sebastiano e Michelangelo nella Pietà diViterbo, a cura di Barbieri, C., Viterbo 2004, p. 60.■Tolnay, op.cit., fig. 205−206.■Barbieri, op. cit., 1999, pp.110−117.アンドレーア・ブレーニョ、ミーノ・ダ・フィエーゾレ、ジョヴァンニ・ダルマタ《枢機卿ピブレーニョ派《ベネデット・ソプランツィの墓碑》(1495年)。ミケランジェロが《復活したキリスト》(1514−1520年)を制作することになるこの聖堂には、この作例以外にもアンドレーア・ブレーニョ作《司教ジョヴァンニ・デ・コカの墓碑》(1465年頃)が存在する。ここでは死者横臥像の上部に浮き彫りの聖母子ではなくフレスコの審判を下すキリスト(メロッツォ・ダ・フォルリ作)が現れる。裁きを下すキリストの坐像は、ピラミッド構図の頂点に位置し、祈りを捧げる司教の描かれたフレスコ画面下部には緑のある大地が広がっている。死者横臥像と聖母の含まれる壁面墓碑ではないが、人物配置においてヴィテルボの《ピエタ》との類似がみられる。―514―装飾も担当している。その再建は1511年から1513年の間に完成した。1496年にミケランジェロがリアリオ枢機卿のもとに到着した時期、アンドレーアはリアリオ枢機卿のためにすでに仕事を開始していたので、2人の彫刻家が出会ったことが推測できるだろう。パラッツォ・デッラ・カンチェレリーアについては以下を参照。Guida d’Italia: Roma,editordi Ferrari-Bravo, A.,Milano 2002, pp.225−227.エトロ・リアリオの墓碑》(1474−77年頃)術史』144号、1998年。

元のページ  ../index.html#524

このブックを見る