―520―(寺伝では僧形文殊と僧形普賢という)が安置されている。一番手前の左右には、兜3尺ほどの漆箔像で、江戸時代初期頃の作とみられる。秘仏本尊の薬師如来立像は、木造一木造、素地仕上げ(現状古色)の三尺像である。構造は、頭部と台座の一部を含む体幹部を一木から彫出し、両肩付け根から両足外側の幅でとり、左右にそれぞれ袖まで含む一材を矧ぎつける。左袖先、左右手首から先、薬壺と足先は別材を矧ぎつける。台座、光背は漆箔仕上げとする。形状は、頭部は、肉髻を低く表し、大き目の螺髪を切付ける(正面地髪で25個)。額を広く表すが、白毫は現状では表さない。眉をつなげ、両目をやや伏目がちに表す。鼻腔を浅く穿ち、口を小さめに表し、顎のくくりを刻む。三道相を表す。右肩から覆肩衣をつけ、左肩から大衣を着し、端を右肩に懸ける。右腕は屈臂して施無畏印とし、五指を伸ばす。左腕は体側に沿って垂下させ、手首と指を曲げて薬壺を持つ。下半身には裳をつける。直立して蓮華座上に立つ。保存は、右手首から先の表面の色味に違和感を感じる以外は概ね造立当初のものを残している。台座、光背、薬壺は江戸時代初期の補作と思われる。造立年代は、表面の彫刻面の表現が硬く、室町後期ごろの造立かと想像される。根本中堂は、明応8年(1499)年に焼かれ(『大乗院寺社雑事記』など)、永正15年(1518)には再建されている。また、元亀2年(1571)の元亀の法難でも焼失し、天正年間(1573−92)には再興された。現在の堂は、寛永19年(1642)の竣工である。本像には、岐阜の横蔵寺の古像を移したという伝承もあるが、作風からみれば、天正年間に再興されたものという感を拭いえない。台座から頭部まで一木から体幹部を彫出しているところや、左腕を下まで垂下させて薬壺を持つ形などは古様で、本像を即、最澄自刻、もしくは平安時代の当初像を忠実に模刻したものとするには言い過ぎではあるが、平安の古像を強く意識して復興したことには違いない。なお、厨子背面には、外側から開閉可能なように扉が取り付けられている。これは、延暦寺支院の一つである伊崎寺の秘仏不動明王坐像の厨子にも見られるものであるが、大事の時に避難可能なように出来ているとのことである。次に、毘沙門檀であるが、ここには全てで8体あり、中央奥には唐風の兜跋毘沙門天像と左右に吉祥天立像と善膩師童子坐像が、その手前の左右には2体の僧形坐像跋毘沙門天の眷属である毘藍婆と尼藍婆が独立して安置されている。中央手前には尊名不明の合掌する僧形坐像が安置されている。ここは前回開扉したのが約70年前のことといい、文化財調査が未実施であったため、古い兜跋毘沙門天像があることが期待されたが、実際はいずれも江戸時代初期ごろの像であった。さらに、祖師檀内には、手前下段向かって左に定印(右手全指を左指で握るやや変
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