―521―わった印相)の仁忠、右に左手に独鈷杵を持ちながら数珠を両手で持つ良源、奥の上段左には、右手に五独鈷杵を持つ円仁、左に定印の最澄の各坐像を安置している。いずれも写実的で丁寧な彫法で、江戸時代初期の造立と思われる。これら以外には、文殊堂内に僧形文殊坐像が、護摩壇には薬師三尊像が安置されているが、いずれも江戸時代のもの判断された。また、内陣内の柱には、絹本著色七仏薬師如来像7幅が掛けられている。画面左下に「法橋了琢筆」とあり、裏書によれば、「太上法王依 御願成就新図七佛薬師之尊像七幅令寄付/比叡山根本中堂給者也為後證加裏書而已/萬治三 庚子 年十二月二十一日」とあることから、万治3年(1660)に、延暦寺山内で多くの作品を残す琢磨了琢により描かれたもので、根本中堂再建後の整備の中、奉納されたものである。なお、内陣の裏手に、厨子内に安置された立像の焼仏がある。今回は厨子の隙間から実見したのみで、きちんとした調査を実施しなかったため詳細は不明であるが、ある程度大事に保存されてきたようにも見受けられる。当初本尊との夢も膨らむが、本像がどのような伝来と由緒をもつ像であるかは現状では明確にしがたい。ちなみに、根本中堂の向かって左奥にはかなり大型の札が32本掛けられている。これは、江戸時代の歴代の千日回峰行者が満行時に奉納したものである。このような大型の満行札は他に無く、回峰行資料として大変貴重で、今回新発見の資料である。以上、根本中堂内の調査結果を略述した。仏像に関しては大方が寛永の根本中堂再建時の造立とみてよく、本尊薬師如来像のみやや古いものと考えられた。また、再興に当たってその多くは旧来の形式を受け継いで造立されたと考えられた。今後はさらに詳細な調査を行い、寛永の造立ということが確定することができたならば、江戸時代の基準作として注目されるべき作品ということが可能であろう。2.山上諸堂、諸仏像を記す古記録の調査について比叡山延暦寺の堂舎を記すものとして、伝記である『叡山大師伝』や『智証大師伝』(石山寺蔵など)などや、一般的な歴史書、貴族の日記などに加えて、『叡岳要記』や『山門堂舎』、『阿娑縛抄』所収「諸寺略記(諸寺縁起とも)」、『山門新記』、『叡山佛閣記』などといった、その諸堂について記した寺誌史料が多数知られている。これらのいくつかは『大日本仏教全書』や『群書類従』などに翻刻がなされ、一般に広く利用されているが、これら延暦寺寺誌史料についての体系的な研究はあまり進んでいるわけではなく、特に各写本についての全体的な実態把握はなされておらず、各写本の系統分類も不十分なままにあるようである。
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