―535―れた陶器で数多く確認されている。製作方法は重ね焼きで、朝鮮前期の粗質白磁の焼き方と同じであり、朝鮮前期の陶磁技術が日本西部所在の朝鮮系窯址に絶対的な影響を及ぼしたと考えられる。こうした小型皿が確認された窯址は佐賀県、有田市の原明、小溝、山辺田など数多くある〔図8〕。出土された朝鮮式小型皿は朝鮮前期白磁あるいは文化が日本西部地域に拡散する過程を明確にみせている。そしてこの小型皿の製作者は1592年、壬辰倭乱の時、朝鮮から日本へ連行された李参平をはじめ朝鮮陶工である。3)杯朝鮮前期白磁の杯は馬上杯と耳杯に分けられる。馬上杯は象嵌青磁、粉青沙器、白磁でみることができ、14・15世紀に生産され、16世紀以後にはみることができない過渡期的器形である。朝鮮前期白磁の馬上杯は上部と下部を別に作り、非常に安定な形で、文様がない〔図9〕。この馬上杯は元代の青白磁あるいは白磁の馬上杯と同じで、朝鮮前期の馬上杯が元代の青白磁または白磁から起源していることが分る。実際に馬上杯は宋代には数少なく、元代から生産された形で、明代の前期では少しみることができるが、明代、成化以後にはほぼみることができない。韓国、南西部地域で出土された馬上杯は粗質で、上部の半径が京畿道地域で作られた馬上杯より狭く、簡略な形で、粉青沙器あるいは白磁で数多く生産された。そしてこうした簡略な形の馬上杯が日本西部地域の朝鮮系窯址で確認することができる。製作の時期は17世紀前半−18世紀後半までである。17世紀前半の馬上杯は百問窯址、掛の谷窯址でみることができる(注7)。上部の盞の部分と下部の高台は同時に作られた。上部は外反と直立の形に分けられ、上部の最大半径は中国、元・明代に製作された馬上杯より狭く、その形は韓国、南西部で製作された粉青沙器や粗質の白磁の馬上杯と似ている。文様はコバルトで施された唐草文や梅花文などをみることができる。唐草文は簡略な形で、盞の上部にみられる。文様の形態は京畿道、牛山里窯址でみられる黒象嵌の唐草文と似ている。梅花文も簡素し、朝鮮前期の白磁の壷や瓶でみられる梅花文の形あるいは雰囲気が同じである。こうした日本西部地域で作られた馬上杯は形と文様において韓国、南西部地域で生産された朝鮮前期の粉青沙器や白磁の馬上杯と類似点が多く、朝鮮前期の馬上杯をモデルにして製作された可能性が高い。製作者は朝鮮陶工あるいはその後孫であると考
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