―45―(注3)。例えば近年、中央作品ともやや異なる生命感と現実感をもつ東北地方随一の名像として注目され、1994年に新国宝に指定変更された会津・勝常寺薬師三尊像(平安初期)は、紫水の調査日記では、「作は少々田舎作の感あり。脇侍等の体勢は余程宜しきか」と評され、藤原中期作とみられている。とはいえ、「以上は、凡て福島に入りしより以来の優物」と称賛もされており、薬師堂、同寺十一面観音立像とともに、この時の調査に基づいて翌年明治36年4月に国宝(旧)指定となり、世に知られるに至ったのである。また、北関東における平安後期の代表的作例である願成寺(白水阿弥陀堂)阿弥陀三尊像については、「創立当初のものだが優秀なるものにあらず」として、運慶作とする寺伝の根拠のないことを示しながらも、同年に国宝(旧)指定されている。美的評価はともかくも、その歴史的価値は認めていたのであろう。天台寺本尊の聖観音菩薩立像は平安中期の横縞条状の彫目をもつ鉈彫像として名高いが、本像について、紫水は行基作伝説を排して藤原中期から初期の作と看破し、「御神体ノ古像ノ如し…(中略)…実ニ白(素)人作リトモ思ハルヘキ作ナレトモ全体ハ余程古作ニシテ面相一種の威厳アルモノ」と評して、スケッチを残している。ほぼ同時期の作であるが鉈目のほとんど無い同寺十一面観音立像については、「他に比シテ作宜シキ方」としながらも指定はなく、聖観音像に関してのみ同36年に指定されているのは、鉈彫り像への評価の早かったことを示している。また、香取神宮の海獣葡萄鏡については、調査当時において「古鏡中の名品なるべし」と直感され、翌明治37年2月に国宝指定されたが、明治43年編纂の『国宝帖』(注4)に数少ない畿外の作例として掲載されている。紫水等による明治36年時の調査成果が反映されたもので、同鏡は、さらに昭和28年3月、文化財保護法下での国宝に再指定されるに至る。このように、紫水「巡礼日記」は、直接に国宝指定に関わった調査記録として、文化財保存史的な意義をもつのみならず、作品批評史の資料としても注目しうるものであるが、詳細については他の調査日記にみる作品への評言とあわせて、別稿にて紹介し論じることとしたい。本研究のもうひとつの課題は紫水たちによる古社寺調査と、岡倉天心との関わりについての検討にある。明治29年天心が古社寺保存会委員(5月任命)、かつは東京美術学校校長であった当時、同校最初の卒業生である紫水は、すでに教官となり(明治26年12月)、古社寺
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