鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
551/589

)幕末明治文人画家天野方壺に関する基礎研究―541―2.2003年度助成研 究 者:愛媛県美術館 主任学芸員  梶 岡 秀 一はじめに伊予国三津浜(現在の愛媛県松山市三津)出身の南画・文人画家、天野方壺(1828−1895)は、幕末から明治にかけて京都を拠点に全国を旅しつつ活動した。明治13年(1880)から16年にかけては京都府画学校出仕の職にあり、また同15年と17年の内国絵画共進会では第三区(支那南北派)に京都府の画家として出品した。このことは彼が当時の京都の南画・文人画壇において一定の評価を得て相応の地位を占めたことを物語っている。例えば富岡鉄斎の私的な筆録の一つにおいて方壺は「画匠」と形容されている(注1)。田能村直入に対しては辛辣な評者だった鉄斎が、方壺には一目置いていたことがわかる。方壺と鉄斎との間には家族ぐるみの交流もあった。鉄斎が三津浜の近藤文太郎に宛てた明治23年(1890)1月1日付書簡はそのことを伝える(注2)。また方壺が大阪の森琴石とも親しかったことも最近わかった(注3)。関西における南画・文人画家たちの交流の輪の中で方壺は相応の地位を占めていた。そうであれば関西画壇における幕末・明治について考える上でも方壺の研究は意義あるものであり得る。方壺の生涯は人名録の類によって辛うじて伝えられる状態が永らく続いていたが、近年、天野家において方壺自筆履歴書が発見され、彼の生涯の概要が明らかになった(注4)。だが、それは明治17年1月31日付の史料であり、晩期の約10年間については記されていない。そもそも画家について知るには作品を知る必要があるのはいうまでもないが、実のところ方壺の画業については画風の変遷さえも分っていない。真贋を判別するための手がかりさえもないのである。従って本研究の課題は、方壺の画業について研究を進めてゆくための地盤を少しでも固めるべく、落款印章、ことに印章について基本的な情報を整理しておくことにある。基準作この作業にあたり愛媛県美術館蔵の方壺画42点のほか今治市河野美術館蔵の1点、財団法人桑折町文化記念館・桑折町種徳美術館蔵の12点、熊本県立美術館蔵の2点や、

元のページ  ../index.html#551

このブックを見る