―542―松山市・京都市等の個人の所蔵品9点、計66点について検討した。だが、全てが平等に有効であるわけではない。方壺は今日一般には殆ど知られていないが、明治・大正期の書画愛好者の間では親しまれていた。大正3年(1914)4月の『書画骨董雑誌』第70号に載る番付「近古南画時価一覧」では彼は118人中の74番目で、鶴亭や鈴木芙蓉、菅原白龍よりも上位に位置付けられていたし、同誌における書画の通信販売でも方壺の作品は多く取り上げられた。需要があれば偽作も出回る。先ずは基準となる作品を確定しなければならない。そこで今回、最も確実な基準作として財団法人桑折町文化記念館・桑折町種徳美術館の蔵する12点(内1点は双幅)を取り上げたい。同館の書画コレクションは、幕末明治期の仙台の呉服商、「種徳翁」角田林兵衛氏の収集したものを主とするが、そこに含まれる方壺作品は角田種徳のために制作されたものと伝えられる。確かに各作品の落款を見ると、明治13年(1880)冬の《漁樵問答》、《水墨山水》にはそれぞれ「於仙台客中」、「於仙台」とあるし、同年12月の《鶏図》には「於仙台客館」、明治14年(1881)1月の《夏景山水》には「於仙台行館」、同年2月の《淡彩牡丹》には「於青葉城下一塵不到処」と記されてあり、明治13年の末から翌年の初めにかけて仙台に逗留したことがわかる。明治13年11月の《彩色山水》には「角田先生」の嘱により跋を書いた旨までも記されている。方壺が晩期に至るまで各地への旅行を続けたことは先述の鉄斎書簡から明らかであり、明治13年から翌年にかけて仙台に旅行していたとしても不自然ではない。しかも鉄斎書簡が方壺の旅を「出稼」と表現したように、仙台滞在の目的も富裕の風流人だった角田種徳翁の需めに応じて書画を制作することにあったと考えるのが自然だろう。角田家旧蔵の天野方壺画12点は、伝来の最も確かな作品群であるといってよい。基準作と考える所以である。最も確実な最小限度の印譜角田家旧蔵の作品群に捺された印章を比較・整理したところ全21種の印が見出せた。それらを印文の五十音順に並べたのが別添の資料「天野方壺印譜」であり、それぞれの印章がどの作品に捺されているかをも記載してある。現時点で最も確実な最小限度の方壺印譜に他ならない。以下、いくつかの印章に関して少々補足したい。「天埜橘印」白文印〔種徳1〕、「天埜橘」白文印2種〔種徳2〕〔種徳3〕は方壺の本名をそのまま刻したもの。先述の方壺自筆履歴書によると彼の名は橘で、字は黄香、
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