鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―547―中の右幅(松山市内個人蔵)等に見られ、これらのうち《枯木水仙》と《蓮池観音舟遊之図》以外では全て「白泉□処右居」白文印も一緒に使用されている。方壺の作品に最も多く見られる印の一対であるといえるが、どれについても完全には同一性を確信できない。今後の課題としたい。熊本県立美術館蔵2点本研究の課題は方壺研究の最低限度の地盤を固めることにあり、財団法人桑折町文化記念館・桑折町種徳美術館の蔵する角田家旧蔵品12点を基準作と認定した上で、それらに見る印章のみによって印譜を作成し、他の諸作品についてはその印譜と関連する限りで取り上げたに過ぎない。そのため本稿では熊本県立美術館蔵の2点についてまだ触れていない。しかし同館蔵の方壺作品は何れも角田家旧蔵作品群に比肩し得る高水準の作であり、少々脱線することにはなるが、ここで簡単にでも触れておきたい。《天台暁望之図》は明治9年(1876)1月の作品。落款には「明治九年歳在丙子春一月寫千金氣蘭臭閣并録李白詩 方壺通僊」と記され、「方壺」白文印・「通仙」朱文印が捺されている。通仙の号は、方壺自筆履歴書によれば明治3年(1870)頃から使用され始めたらしい。大山・雲眠・豫章・侶雲の号も同じ頃から使用され始めたという。ちなみに方壺は、万延元年(1860)37歳の3月に長崎に到着して以来、明治4年(1871)1月に京都へ移動するまでの間を基本的には長崎を拠点にして九州で活動していたらしく、肥前と肥後の間を盛んに往復していたらしい。さて、愛媛県美術館の蔵する《芦雁之図》の落款には「丙子立春後寫千金氣蘭臭閣 方壺」と記され、「方壺通仙」白文印・「豫章」朱文印が捺されているから、使用された印こそ違うものの、《天台暁望之図》とは共通する点が多い。時は明治9年の1月と2月。所は「千金氣蘭臭閣」。通仙と刻した印を用いているし、《芦雁之図》の朱文印に刻された豫章の号も、通仙の号と同じく幕末明治初期の九州滞在時から用いられ始めたもの。「千金氣蘭臭閣」がどこであるか定かではないが、熊本の天草が春蘭の産地である点を考慮すれば、熊本の蘭商の邸宅か何かだった可能性が高い。方壺自筆履歴書には明治9年についての記事がないが、その時期に熊本旅行があったとも考えられよう。もう一つ、《天台暁望之図》で注目に値するのは箱の裏に「賜天覧之図」と記されていることだ。これに関連しては、旧来の方壺略歴の類が「英昭皇太后より揮毫を命ぜられ、名声を博す」と伝えていることが想起される(注7)。この作品がそれに関係している可能性も考えてよいかもしれない。

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