鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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富岡鉄斎と方壺との交流については『大和文華館所蔵品図版目録六 富岡鉄斎』(大和文華館,注鶴田武良編『鐵齋筆録集成 第一巻』(便利堂、1991年)p.195。■森琴石との交流については琴石ご子孫よりご教示を得た。同家蔵の方壺関係資料の調査は今後―548―《秋声送夕日図》は明治12年(1879)5月の作品。落款には「己卯夏五月寫白石城客舎 白雲外史方壺」と記され、「白泉□処右居」白文印と「方壺書画」白文印が捺されているが、先に触れた角田家旧蔵の二種〔種徳17〕〔種徳20〕とは違う。気になるのは「白石城」がどこであるのかという点で、宮城県白石市益岡町に白石城があるが、熊本県八代市松江町にある八代城にも白鷺城・不夜城のほか白石城の別名がある。本作品も熊本滞在時の作である可能性がある。おわりに本稿では各地の機関・個人の蔵する天野方壺作品約60点を調査した上で、桑折町種徳美術館の蔵する角田家旧蔵品12点を基準作と認定し、特に印章に限定して検討作業を行った。とはいえ現在までに把握した方壺の作品は全て明治以降のものであり、彼の前半生の作品がまだ発見されていない。これまでに見出した作品群には驚くほど多様な印が使用されているが、その多くは実は今回作成した印譜に含まれない。そもそも基準作とした角田家旧蔵12点の中には明治13年、14年、17年の作しか存在しない。伝来の明確な作品が他に出てくるとも期待し難く、方壺研究のための確実な基盤を固めるという本研究の課題にも自ずから限界があるが、ともかくも今回の調査で得られた少ないながらも確実な情報に基づいて持続的に検討することが必要だろう。同時に、広い視野に立って様々な可能性を探ることが必要であるのはいうまでもない。本稿でも、熊本県立美術館蔵《天台暁望之図》と愛媛県美術館蔵《芦雁之図》の比較から、方壺が明治9年初頭の数ヶ月間「千金氣蘭臭閣」に滞在していた可能性、またそれが熊本のどこかである可能性を考えた。まだ仮説に過ぎないが、今後その実証に努めたい。また今回の調査対象の一つに京都市内個人蔵の明治10年(1877)夏の作《蔬菜図巻》があったが、これの画題は「売花翁」「賣主華菴」「群鶏艸堂」等の号に窺える方壺の自己認識との関連で読まれ得るかもしれない。作風・筆法の分析や賛の解釈を含めた個別作品の詳しい研究に取り掛からなければならないが、それは今後の課題である。1976)p.77。

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