―46―(注6)からもうかがわれるが、彼は天心の日本美術院、古社寺保存会、ボストン美保存会調査員を委嘱されていた。天心は明治28年10月に宝物取調のため岩手県に出張しており、明治29年に始まる紫水、木村武山の中尊寺調査、同30年からの新納忠之介を主任とし紫水、菅原大三郎、木村武山等によって始まった中尊寺修理はともに、東京美術学校長天心を通じての依頼であることが知られている。その後も、明治29年9月の天心の京都、奈良、和歌山、滋賀の宝物調査を受けて、翌年の紫水等の和歌山での調査〔表1−④〕が行われ、明治34年7月の天心、新納、中川他による京都、奈良での調査を受けて、翌年の中川、片野、紫水による同県調査〔表1−⑩〕がおこなわれている。明治32年、33年、36年山口方面、36年茨城方面への調査〔表1−⑥⑧⑬⑮〕には、いずれも天心自身も一部参加しており、一連の紫水等による調査活動は基本的に天心の意向を受けて、その采配のもとにあったものとみてよいであろう。天心は、この間の明治31年3月に、東京美術学校校長を非職となり、同年7月、日本美術院を設立、紫水も同校を連袂辞職し、美術院正員総代となった。継続された内務省委嘱による公務である古社寺調査の仕事を、紫水、中川、片野に委ね、やがて天心はインドへと旅立つ(明治34年11月〜同35年10月)。以後、明治37年の渡米に至るまで、古社寺調査はもっぱら紫水、中川、片野を中心に行われており、インドから帰った天心も、実地調査に部分的に参加しているものの、多くは彼らに委ねられている。渡米後に、天心が中国・日本美術の目録作成や保存修理のために紫水をボストン美術館に残し、さらに同美術館長に対し、最良の補助役の学者として片野、中川両名の名を推薦しているのも(注5)、この間の彼らの調査活動への信頼ゆえであったであろう。紫水「古社寺巡礼日記」の時代は、天心にとっても、その後の活動を支えた人材―ボストン美術館における紫水、美術史学上の後継者としての中川、片野―を育成した貴重な時期ともなったのである。紫水が他分野にわたる幅広い知的関心と学究的資質の持ち主であったことは「紫水自叙傳」にみる色漆研究開発、鉄道車輛漆塗装開発の話や後の著作『東洋漆工史』術館という、いずれの面における活動とも深く関わっている。天心の薫陶のもとで創作に励んだ横山大観、菱田春草、古文化財修理を専門とする道を選んだ新納忠之介、美術史学的継承者としての中川、片野に対し、紫水は漆芸創作と古文化財修理と指定保存のための調査活動のいずれにも情熱を注いだのである。しかし、古社寺調査活動の帰結としてのボストン美術館での4年間は、創作者としての紫水には禁欲の時代でもあった。滞米中の紫水の記録は、「足らぬ材料を掻集めて制作」と自ら銘した記念作『岩に鶺鴒図丸額』と『色漆応用蒔絵小箱』を残すほかは極めて乏しい。また滞米
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