鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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*院政期における宋代美術の受容について―553―――五台山騎獅文殊菩薩像を中心に――研 究 者:独立行政法人文化財研究所 東京文化財研究所 研究員はじめに中国・山西省の省都太原の北東に位置する五台山は五つの峰からなる山岳地帯で、古来より山岳信仰の中心地の一つであった。この五台山が文殊の聖地である清涼山に比定されたのは7世紀半ば頃だとされ、その観念は8世紀後半には広く定着するに至った。この五台山文殊信仰の特筆すべき点は、その信仰が中国のみならず、西は西域、インド、東は朝鮮半島、日本に至るまで極めて広範囲にわたった点で、五台山を目指そうとした日本僧は、古く奈良時代の玄|をはじめ、その後平安時代に入ってからは円仁、寛健、É然、成尋、重源と時代を通じて見られたことは周知の通りである。中でも、10世紀末に清凉寺釈迦如来像を請来したことで著名なÉ然は、後に今様にもあるように、当時は文殊菩薩を請来した人物としても認識されていたことは注意されてよい(注1)。事実、É然は五台山清凉寺になぞらえた新伽藍を建立するために、11世紀初頭には、再度弟子である嘉因らを派遣し文殊菩薩像を請来させていることが知られるのである(注2)。この騎獅文殊菩薩像は、摂関家によって召し上げられた後平等院経蔵に納められ、院政期においてその図像が規範性をもって用いられたことが知られる点で極めて重要だが、残念ながら現存せず、その像容を知ることは不可能である。ただし、10世紀以降の中国において、ÖÑ衣を着し持物に如意をとり、獅子上で片足を踏み下げて坐すといった五台山文殊菩薩像の図像が広まりを見せ始めるが、院政期の日本において、それと近似した図像の文殊菩薩像が造像されていることを考え合わせるならば、当時の対外的受容の様相を考えるに当たって、11世紀初頭における嘉因請来の文殊菩薩像は重視すべき存在であると言えよう。実際、近年、この嘉因請来の文殊菩薩像については、É然請来の宋版一切経とともに平安時代後期の対外受容のありようを示す一事例として、奥健夫氏により取り挙げられているのが注目される五台山文殊菩薩像をめぐっては、これまでにも、獅子に載った文殊菩薩に、善財童子、于í王とされる馭者、それに仏陀波利、大聖老人を伴った五尊の群像として成立したのが晩唐頃であることを明らかにした金子啓明氏の論考をはじめ、諸先学の研究(注3)。皿 井   舞

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