―554―ÖÑ衣とされる衣については、文殊菩薩関連経典に典拠を見ない特殊な事例であるこÖÑ衣を着する点と持物に如意を取る点(ただし、南禅寺像は亡失)は共通するが、が蓄積されてきた(注4)。本稿では、中国国内における文殊菩薩像の図像的展開、特に文殊菩薩像の服制の変遷に着目してみたいと思う。とりわけ、ここで着目するとや、その図像的典拠は知恵を司る文殊菩薩が同様に知恵を体現する般若菩薩と同格とする説によるものという指摘が、既に金子氏によりなされている。本稿においては、これを踏まえ、五台山文殊の図像の成立やその思想的背景に言及しながら、平安時代後期における文殊菩薩像の受容について考察するに先立ち、中国ひいては中国周辺地域における五台山文殊菩薩像の図像の伝播の様相について明らかにすることを目的とする。1.五台山文殊菩薩像の図像的変遷まず、五台山文殊菩薩像成立以前の騎獅文殊菩薩像の図像について、簡単に概観しておきたい。騎獅文殊菩薩像は、上半身は天衣や条帛をまとい下半身は裙を着けるという通形の菩薩形として、中国古来の画像石などに表される霊獣の対形式での表現の伝統を基礎とし、7世紀頃に成立したことが指摘されている(注5)。五台山内は、廃仏のために唐代に遡る寺院や彫像はほとんど残されていないものの、唯一竹林寺址より発見されたという白大理石製の騎獅文殊菩薩像が、様式的見地からおよそ盛唐期頃に制作されたかと推測されるが、やはり通有の菩薩形をとるもので、少なくとも初唐期から盛唐期に造像された騎獅文殊菩薩像は、地域的に広範囲にわたって通有の菩薩形として造顕されたと見て良いものと考えられる。服制にのみ着目するならば、上記に見た通有の菩薩形は、次第に主にÖÑ衣をつける文殊菩薩へと変化していくことが指摘できる。その最古の遺品である可能性が高いのは、いわゆる台外に所在する中国最古の木造建築遺構として著名な南禅寺の大殿に安置される文殊菩薩像で(注6)、次いで同じく台外に位置する唐・大中11年(857)頃に再建されたという仏光寺の大殿内に安置される騎獅文殊菩薩像である。いずれも仏光寺像が左足を踏み下げるのに対し、南禅寺像では獅子上の蓮台で左足をはずして坐す点で、後者は図像が成立するまでの過渡的な性格を見て取ることも可能であろう。いずれも後補の補彩により、オリジナル部分の見極めが難しいが、少なくとも五台山においては8世紀後半以降に新たな図像的特色を持つ文殊菩薩像の出現したことが窺われる。ここで、ÖÑ衣の形式的特色を再度確認した上で、このような図像的変化が生起し
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