鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―555―た背景について考察を進めていくことにしたい。2.ÖÑ衣の形式る論考(注8)が知られ、最初にこれらを参照しつつ、その特色について見てみることにしたい。井上氏の指摘にもあるとおり、経典内の図像的説明からも明らかにÖÑ衣を着用する尊格として参考になるものに般若菩薩が挙げられる。7世紀半ばに漢訳された『陀羅尼集経』三(注9)によれば、二臂の般若菩薩像の服制については、上半身には美しい刺繍がほどこされた薄手の錦をまとってÖÑ衣とし、下半身には朝霞の裙を着用せよと明記されており、胎蔵曼荼羅虚空蔵院に表された二臂の般若波羅密像を参照すれば、腰丈で肘部分を鰭袖とする衣をÖÑ衣と称していたことがわかる。一方、二臂ではなく六臂の般若菩薩では胎蔵曼荼羅持明院般若菩薩〔図1〕がよく知られるが、筒袖状の内衣を着け上膊部分には内衣とは異なる古札を連ねたような衣が認められ、これがÖÑ衣に当たるものと考えられる。この点については二臂像の服制とほぼ共通するが、六臂像ではさらに両肩から胸部を覆う別の着衣をつけていることがわかる。この六臂の般若菩薩の尊容については、善無畏訳『大毘慮舎那経広大儀軌(以下、広大軌とする)』に「身には堅甲冑を被る」という一節が認められ(注10)、一方、平安時代末頃に撰述された事相書『覚禅鈔』「般若菩薩」の項でも、六臂像の解説においてやはり『広大軌』が引用されるとともに、続けて高雄曼荼羅図像の注記においては「鎧を着ける」とあり、六臂像では甲冑ないしは鎧を着けることが明記されている(注11)。また、般若菩薩の像容を観相する「道場観」の項には「身に金剛甲冑を着す」という記載が見られ、これも同様のことを指すと考えられる。先述の六臂像の図像と照らし合わせるならば、ここに記される甲冑あるいは鎧とは、ÖÑ衣の上に着用された肩から胸部を覆う甲、もしくはそれらを組み合わせた服制のことを指す可能性が高いと言えるのではないだろうか。このような服制は実際の遺品でも確認されており、例えば中国・陝西省西安市の安国寺址から出土した、およそ8世紀半ば頃の制作とされる白大理石製の伝虚空像菩薩坐像が挙げられる。左手に蓮台上に梵経を載せた持物を執ることから、般若菩薩として造像された可能性が高いと考えられるが、服制に着目すれば、やはり筒袖状の内衣に薄手のÖÑ衣を着け、さらに両肩および胸上部を覆う甲のようなものをつけている。なお、これは般若菩薩に限って用いられたわけではなかったようで、例えば、中国・ÖÑ衣については先行研究として逸見梅栄氏による概説(注7)や井上暁生氏によ

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