―556―咸通5年(864)大英博物館所蔵の〈四観音文殊普賢図〉の画面上部にあらわされる四dの観音像もまた、同様の服制をしており、これがインド的な要素を持つものであることが既に指摘されている点が注意されよう(注12)。ひるがえって、通有の文殊菩薩像からの図像的変化が認められた南禅寺および仏光寺の文殊菩薩像に立ち戻って見ると、いずれもÖÑ衣に、肩部分を覆う装飾化された甲を着けており、ÖÑ衣と甲を組み合わせた服制のヴァリエーションの一つであるものと考えられる。それは、中国・北宋初期頃、つまり10世紀後半頃の作と見なされているフランス・ギメ美術館所蔵の〈五台山文殊菩薩化現図〉(注13)にあらわされた文殊菩薩像においても同様で、ÖÑ衣の上から肩甲と胸甲を着けている。3.五台山文殊菩薩像の成立契機とその時期このような服制が成立した契機として、とりわけ重視したいのは、やはり8世紀後半における不空による五台山文殊信仰の興隆である。先にも述べたとおり、金子氏が既にこの図像的典拠を、文殊菩薩と般若菩薩とが同格とする説によるものと指摘されているが(注14)、不空において、教理上初めて毘慮舎那仏の悟りの境地と文殊菩薩の供養を介して得られる般若波羅密とを連関させることが行われたという(注15)。事実、文殊菩薩に関する不空訳の経典のうち、たとえば『金剛頂瑜伽文殊師利菩薩法』(注16)においては、文殊五字真言の字義とその読誦による般若波羅密多の成就という利益、及びその手順を説いている。その手順とは、密教的な五髻の童子形文殊菩薩の観想であり、それと自らが一体となることによって般若波羅密を得るとされるのである。さらにその後半では、灌頂に際して行者は金剛甲冑を着用し四仏に礼拝した後、毘盧舎那の悟りの境地に入り、一切の大乗経典、般若大品ないしは文殊般若を読誦するという。文殊菩薩を観相して般若波羅密を成就した行者が金剛甲冑を着用するという文言を字義通り受け止めるなら、この金剛甲冑とは先に見た般若菩薩の服制の一つであると考えられ、ここから文殊菩薩の姿を観相することによって悟りを得た行者が、さらに般若菩薩の姿をとるとされていることがわかり、概念的にではあれ両者の密接な関係が窺われよう。また、不空の弟子である円照が撰集した『代宗朝贈司空大弁正広智三蔵和上表制集』三から、不空が一層目には文殊菩薩を安置し、上層には経典を安置するという二層楼閣の経蔵を建立するよう指示したことが知られる(注17)。金子氏も指摘されているとおり、『陀羅尼集経』には一切経蔵の本尊として般若菩薩を安置することが説かれ
元のページ ../index.html#566