―557―ており、このことから、文殊菩薩が般若菩薩に置き換わる尊格として捉えられていた可能性が高いと思われる。文殊菩薩像が胸甲や肩甲などの装飾のついたÖÑ衣を着用するようになるという図像的変遷については、その直接的根拠となる経典ないし史料は管見の限り見あたらない。こうした服制は、8世紀初頭以降に新たに中国にもたらされた密教の尊像の服制として多用されており、その新奇性ゆえに新しい図像として取り入れられた可能性も念頭に置く必要があろう。ただし、文殊菩薩像への新たな服制の適用が積極的に行われたのは、以上に検討したように、8世紀後半に不空周辺で文殊菩薩と般若菩薩とのつながりが生み出されたことも、その理由として大きかったと言えるのではないだろうか。4.五台山文殊菩薩像図像の伝播と五代〜北宋初期における五台山信仰の再興五台山文殊菩薩への礼拝によって得られる功徳と真言が記される。一方、これに先立ち、同じく敦煌において「五台山文殊菩薩」と明記される図像としては、五代・同光3年(925)の敦煌莫高窟第220窟の甬道北壁に表された騎獅文殊菩薩像〔図3〕が挙げられる。持物、坐勢は同じながら、ÖÑ衣は着けずに僧?支をまとい、両肩を覆う衣を着け、天衣を懸けている。こうした服制の文殊菩薩像は、盛唐期の開鑿とされている莫高窟172窟、中唐期の楡林窟25窟や五代前期とされる楡林窟16窟主室など、敦煌周辺においてまま見受けられる。あるいは、中には袈裟を着するものもあり、これらの図像は不空以前の何か別の典拠から生み出されたものであるとも推測されるものである(注19)。いずれにせよ、現存遺品の限りではあるが、日本において五台山文殊菩薩像として認知されるÖÑ衣を着用する図像は、中国においても10世紀半ば以降になって初めて定着し始めるようである。このことは、10世紀以後に再び五台山が注目されるようになることと関わるものと推測される。事実、後唐・庄宗の時代、およそ同光2年(924)頃から、西北諸民族の五台山への巡礼が盛んになるという。これは、同年に敦煌を統治していた曹議金を「帰義軍節度使」に任命したこと、仏教を篤く信仰していた曹氏政権が中原との交通の充実に努めたこととも密接に関わろう(注20)。8世紀ÖÑ衣を着ける騎獅文殊菩薩像の遺品として次に挙げられるのは、10世紀半ば頃敦煌を統治していた節度使曹元忠の頃に製作されたものと考えられる版本である(注18)〔図2〕。縦横がおよそ28×17センチの長方形の紙面を上下二区画に分割し、上部には童子と優填王を伴って如意をとり騎獅上に足を踏み下げて坐す文殊菩薩像、下部には
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