―558―後半頃に成立したと見られたÖÑ衣を着用するという新図像は、唐後半期における情勢不安も関連してか、必ずしも同時代的に広範囲に流布したとは言えないようである。後周の顕徳2年(955)には世宗による廃仏が行われるが、その後960年に国内統一を果たした北宋では積極的な仏教優遇策が推進されたことが指摘されている(注21)。北宋朝廷と五台山との関わりは、北漢・天会11年(967)に太宗が山西省地域を平定した際、広慧大師が太宗に山門の聖境図、すなわち五台山図と五竜王図を渡したという『広清涼伝』の記事(注22)を初見として、北宋・太平興国5年(980)には、廷臣を五台山華厳寺菩薩真容院に詣でさせ金銅製の文殊菩薩像を造らせるとともに、華厳寺をはじめとして竹林寺や金閣寺などの十ヶ寺を修造させたということが知られる(注23)。983年には第五大蔵金字経を菩薩院に安置させるなど、北宋初期には五台山を重視した事業を進め、真宗皇帝においても、北宋・景徳4年(1007)には、内庫の一万貫を賜い再度五台山の修造を加え、太宗・真宗・代宗の三代にわたって御書180軸と天竺字源7冊を送るなど、北宋初期、歴代皇帝の五台山に対する信仰には並々ならぬものがあった(注24)〔表参照〕。このような五台山に対する重視は、10世紀初頭から西域やインド僧によって五台山巡礼が熱望されたことにも密接な関係があるものと考えられる。当時、都であった卞京に訳経院が建てられ、インド僧によってもたらされたサンスクリット経典の翻訳事業が始められたこと、逆に中国僧を西域に送ることもあり西域との交流を盛んに行ったことが知られている。すなわち、こうした仏教政策は、仏教を媒体の一つとして唐代の版図に匹敵するものを回復しようとした北宋朝廷の意図を反映したものと評価されており(注25)、西域方面で重用視されていた五台山信仰は、そのような政治的側面においても利用価値の高いものであったと推測されるのである。むすび以上に検討したように、ÖÑ衣をまとう五台山文殊菩薩像は、10世紀半ば以降、北宋王朝の五台山重視の仏教政策と相俟って広範囲に流布しはじめたものと推測される。嘉因による再渡宋と五台山文殊菩薩像の請来は、まさに北宋による対外的政策の範疇に入れられるべきものであろう。この点からすれば、平安時代半ばの日本も東アジアの潮流の只中にあったと言えるわけだが、「はじめに」で触れたように、新たに請来された文殊菩薩像は最終的に平等院経蔵の中に秘匿された。請来品は、それが外からもたらされたものであるからこそ価値を持っていたわけであるが、それが、たと
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