注『新編日本古典文学全集42梁塵秘抄』(小学館、2000年)。「文殊は誰か迎へ来し、É然聖こそは迎へしか、迎へしかや、伴には優填国の王や大聖老人、善財童子の仏陀波利、さて十六羅漢諸天衆」 「永延二年二月八日太政官符案」(『平安遺文』9−4575)。■奥健夫「中尊寺経蔵の文殊五尊像について」(『仏教芸術』277、2004年11月)。■金子啓明「文殊五尊図像の成立と中尊寺経蔵文殊五尊像(序説)」(『東京国立博物館紀要』18、1978年3月)。群像構成については、田邉三郎助氏が、于í王とされる馭者、善財童子を伴う三尊形式の成立を、五台山仏教が最盛期となる8世紀後半頃とされる(「五台山文殊・普賢の図像 −五台山信仰の一側面−」〔『大法輪』1988年5月〕。のち、同『日本彫刻史論集』中央公論美術出版、2001年所収)他、栄新江氏は于í王とされる馭者、善財童子の三尊形式が五代頃に成立したとされる(栄新江「従敦煌的五台山絵画和文献 看五代宋初中原与河西于í間的文化交往」『文博』1987年第4期)。■小島彩「騎象普賢と騎獅文殊の図像」(『美術史』137、1995年3月)。■1974年の修復の際に発見された平梁の墨書銘によれば、それが唐・建中3年(782)に重修されたといい、殿内の諸像についても同時期の作と考えられている(中国仏教文化研究所・山西省文物局『山西佛教彩塑』中国仏教文化出版有限公司、1991年)。『大正新修大蔵経』図像5 89−b。ロデリック・ウィットフィールド『西域美術 大英博物館スタイン・コレクション 敦煌絵画ジャン・フランソワ・ジャリージュ『西域美術 ギメ美術館 ペリオコレクションⅢ』2(講金子啓明『日本の美術314文殊菩薩像』(至文堂、1992年)。長部和雄『唐代密教史雑考』(神戸商科大学学術研究会、1971年)。『大正新修大蔵経』20708−c。―559―■逸見梅栄『仏像の形式』(東出版、1970年、356〜357頁)。■井上暁生「経典と図像と仏像−ÖÑ衣を中心にして−」(『密教図像』5、1987年5月)。『大正新修大蔵経』18『大正新修大蔵経』18えば平等院や鳥羽の経蔵に納められることによって、請来品個別にもっていたはずの本来の意味が失われるとともに、日本の権力的ヒエラルキーの中に組み込まれることになったのである。すなわち、ここではある意味で、価値の変容が行われたわけである。このことに端的にあらわされるように、平安時代半ば以降院政期にかけての対外受容の特質は、平安時代前期以前の直接的な摂取ではなく、請来品の内在化による「和」「唐」という区別の希薄化により惹起される請来品の意味の変容や、それに付随した新たな創造が伴ったものであったと考えられるのではないだろうか。Ⅰ』1、(講談社、1982年)談社、1995年)。805−b。106−b。「次当大日前、般若菩薩、明妃契六臂、三目皆円満、定羽掌梵夾、慧羽竪護印、次定仰臍輪、慧羽垂与願、二羽定慧印、各結根本契、身被堅甲冑、是名諸仏母(後略)」
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