―570―(高木氏)、ドイツ(アッヘンバッハ氏)の各国美術界での足跡について、5名の発表2日目は「作品の移動を媒介とした貢献―美術品の交流」と題し、林が滞在したフランス(瀬木氏、ラカンブル氏)のほか、イギリス(アーヴァイン氏)、ベルギーと、岡部氏の司会でこの5名に一般参加者を交えた討論が行われた。高木氏の発表は、「ブリュッセルの日本美術コレクション」と題されたもので、書簡によって林と取引のあったことがわかったエドモン・ミショットという人物が、林から大量の浮世絵を委託されて販売していたことが指摘された。また、この人物は単なる画商でなく、教養ある文化人サークルとかかわりのあった音楽家、批評家であり、彼自身貴重なコレクションを形成し、後に王立美術博物館に7000点もの作品を譲渡する。1900年ごろアールヌーヴォーの拠点のひとつになるブリュッセルで、このような文化サークルが形成され、そのコレクションの質を高めるのに林が一役買っていた事実が判明した。続くアーヴァイン氏の発表は「<林覚書>再考―1886年ロンドンにおける林忠正とヴィクトリア・アンド・アルバート美術館の日本美術コレクション」と題され、発表者が勤務する美術館の貴重な資料から、林がこの年に依頼されて、既にあった日本美術の館蔵品カタログを改定し、再分類を行ったことが紹介された。アーヴァイン氏は、このいわゆる<林覚書>を詳細に分析してその仕事ぶりを具体的に紹介し、彼が得意とした絵画・版画の分野の詳細なコメントと、あまり得意でなかった茶器や銅製品についてのコメントの少なさなどの対比を指摘した。また購入に関して将軍からヴィクトリア女王への献上品、万国博覧会での購入品、林が関わって買ったと思われるものなど、美術館の収集史を展開した。さらに1910年頃から日本に対する関心が低下し、日本に対するロマンチックな幻想が失われたという点も指摘した。瀬木慎一氏の発表は林忠正の周囲にいた3名の日本人、松尾儀助、若井兼三郎、執行弘道と林の関係を解き明かすことを目的としたものであった。佐賀出身の松尾と起立商工会社の関係、林を画商として育てた若井の日本における早い時期の美術商としての位置づけ、灯台の林の同級生であり、同時期に海外へ渡った執行の、アメリカでの日本美術紹介者としての活躍など、実証的研究で林の人間関係を明らかにした。ノラ・フォン・アッヘンバッハ氏の「ハンブルク工芸美術館の所蔵作品と林」は、発表者が勤務する同美術館の開館時の館長、ユストゥス・ブリンクマンと林の親密な関係を明かす資料を使って、ブリンクマンの購入方針、とりわけ陶器(乾山焼)を新しい工芸運動に結びつける点や、日本人助手の原信吉が分類した2000点の刀剣類への情熱など、コレクションへの重要な影響力について明らかにするととともに、それらがハ
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