―571―ンブルクのジャポニスムの展開にどのように関わったかの指摘もおこなった。ジュヌヴィエーヴ・ラカンブル氏は、「パリの画商の中の林」と題して、ヨーロッパで最も早く美術品として日本の作品を意識的に導入したパリの美術界のコレクション史を歴史的に詳細に叙述することによって、林が到着する1878年万博以前にどのような知識とコレクションがパリに存在していたかを示した。その上で、林の貢献を、明治時代の工芸品の輸入と清長、師宣、歌麿らの紹介と位置づけた。また、彼が商売を撤退しようとしていた1900年ころに日本への関心の衰退が始まったとして、アーヴァイン氏の述べたロンドンにおける衰退に比べ、時期が10年早いことを指摘した。3日目は「美術の受容における貢献―美術論の交流」と題し、西欧の日本美術愛好家、研究者への林の影響(ブリジット小山氏、モスカティエッロ氏)と、明治期日本の美術界と林のかかわり(手塚氏、山梨氏、馬渕)についての5名の発表の後、宮崎氏の司会でこの5名と一般参加者を交えた討論が行われた。手塚恵美子氏の「日本人美術家のジャポニスム需要と林忠正」は、明治時代、パリに言った日本人留学生と林の具体的なかかわりから始まって、彼らが自らの藝術とジャポニスムをどの程度意識的に関わらせていたかを、浅井忠や和田英作などの作品において分析した。また、当時の日本におけるジャポニスムの言説を丹念に拾い上げ、批評家や美術家がジャポニスムが何であるかを知りつつ、国粋主義的な流れの中でそれが曲解されないよう、配慮していたことを明らかにした。小山氏の発表は、ゴンクールが日本美術をどのようなものとしても愛好し、オトーユの私邸をどう飾ったか、また林の協力を得て『北斎』を執筆したときのものと推定されるノートの内容を、明らかにするものであり、ゴンクールにとって林が不可欠な協力者であったことを明らかにした。モスカティエッロ氏は、林の西洋美術コレクションの中にイタリア人芸術家の作品が多いことに注目し、それらの作家たちがパリ在住でゴンクール、ビュルティ、ドガと親しいグループに属していたことを明らかにした。とりわけデ・ニッティスは日本美術のコレクションを持っており、彼自身の芸術も深く日本美術に影響を受けたものだった。とくに1878年の林が渡航した機会である万国博覧会の際に一緒にパリに行った渡辺省亭との接点から、通訳の林とも面識を持ち、自身の作品と浮世絵の交換を行った可能性を示唆した。山梨美子氏の「林忠正と日本における<美術>および<工芸>の概念の確立」においては、1872年に「美術」「絵画」「工芸」の概念がウィーン万博出展を控えて確立したが、その後まもなくパリに渡った林忠正が「美術」と「工芸」の定義を明確にする
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