―572―とともに、用途を持たない、純粋に美術として制作されたものとして、鈴木長吉に依頼した《十二の鷹》を制作し、シカゴ万博という場で世に示そうとしたことを指摘した。このように伝統を維持しつつ日本美術を西洋化する方向を目指していた彼の姿勢を評価した。馬渕の「林忠正の西洋美術コレクション―日本への西洋美術紹介」は、林が日本に美術館を作る意図で1890年前後から収集を始め、やがて没後に散逸してしまったコレクションの全貌を紹介したものであった。まず、コレクションがおよそ600点という膨大なものであり、あまり知られることがなかったものの、一部は日本に長くあって、もっとも古くから入った西洋絵画として折に付け鑑賞されていたこと、それらの多くは日本美術を愛好する画家たちから、浮世絵と交換という方法で集めたこと、その例としてベルト・モリゾとの接点と彼女のジャポニスムについて論じたものであった。以上、基調講演に続く10人の発表に対して、活発な質問、議論が出た。その論点を具体的に列挙すると、瀬木氏と木々氏の議論となった「起立工商会社」の読みの問題や、林の「蔵書印」がどう使われたか、また高木氏が紹介したミショットと林の間で行われた「委託販売」の意味と理由、アーヴァイン氏とラカンブル氏が指摘した、日本美術流行が終焉した時期がパリ、ロンドン、あるいは他の都市で異なるのかという点、それはなぜか、終焉でなく好みの形態が変化したからではないか、という問題、ジャポニスムの日本国内での知名度と理解の実際について今後も検討が必要であるという点、イタリアにおける日本美術理解が遅れたのは林のような人物を持たなかった例として考えられるのでは、という指摘、林所蔵の西洋画に風景画が多かったのは、当時の日本で天皇制強化に向けた歴史画が奨励されたことへ、暗に反発していたからでは、など、重要な議論が続き、多くの問題点が明らかになり共有されたことは、大きな成果であったといえよう。これらは、総括を担当した高階秀爾氏によって整理され、今後の検討課題として参加者に提示された。このシンポジウムは、林忠正という特定の個人の活動から出発して、当時のヨーロッパ諸国の日本美術の受容状況、美術館での作品の収集状況、ジャポニスムの様相、日本における美術の諸概念の変化、西洋美術の受容状況、日本における美術がどの方向を目指していたかなど、当時の美術をめぐる大きな議論へと発展して行った。まさに林忠正という人物がそのような論点の交差する地点に位置していたからである。このシンポジウムは11月19日付の日本経済新聞文化欄に取り上げられ、その意義を高く評価されたことも付記しておく。
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